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「ドラ1指名から14年かけてプロ初勝利」野中徹博はなぜ引退後に“探偵業”を志したのか? 激動の人生を歩んだ右腕が語る「失敗のススメ」
posted2023/06/25 11:03
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph by
Koh Tanaka
中日から戦力外通告を受けた野中は1996年秋、ヤクルトの秋季キャンプにテスト生として参加し、合格を果たした。
「スター選手があまりいない中で、そつがない野球する。どういう考えで指導と采配をしているのか……。野村監督の下で野球をやってみたかったんですよ。これがプロ野球選手としてのラストチャンス。必ず結果を出して終わろうと決めていました」
「ノムラの教え」をノートに書き写し…
入団して最初に驚いたのは、ミーティングだった。野村は多くを語らず、黙々とホワイトボードを文字で埋めていく。打者と投手の心理状況の優位性をカウントに応じて数字で表したり、野球選手である前に人間形成が重要あることをつづったり……。そのすべてをノートに書き写しながら、野中は思わず息をのんだ。
「野球をここまで追求しているのか、と思いました。知らないことだらけでしたし、野球ってここまで考えないといけないんだな、と。ヤクルト時代に指にタコができるほど書き写したノートは、僕の財産になっています」
実際に練習が始まると、野村はキャンプから野中の投球をよく見てくれた。ただ、細かいことは何も言わない。技術的なことで言われて思い出すのは、「おい、フォークは落とそうとして投げてはいかん。真っすぐと同じ感覚で投げりゃええんじゃ」くらいのものだった。
捕手の古田敦也とは同級生だった。古田がどういうキャッチングをするのかを肌で感じたかったことも、ヤクルトでプレーしたいと思った理由のひとつだった。
古田はショートバウンドのボールもまったく後逸しない。ボールを投げれば投げるほど、自然と投手に安心感を与えてくれる捕手だった。
「球界ナンバーワンのキャッチャーだと、ホント思いましたね。投手が怖がることなく思い切り投げられるオーラが、間違いなく古田にはあった」