アスリート万事塞翁が馬BACK NUMBER
ドラフト1位指名から7年、野中徹博は中華料理屋で「ラーメンのダシ」をとっていた…甲子園の英雄が阪急で味わった“一度目のプロ生活”の苦しみ
posted2023/06/25 11:01
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph by
KYODO
夏の甲子園が終わってからしばらくして、野中徹博は中京高校の監督・杉浦藤文から「12球団から声が掛かっているぞ」と告げられた。
「お前はどこに行きたい?」
そう問われた時に、野中は初めてプロ野球選手に憧れた日のことを思い起こした。
運命のドラフト会議当日「阪急だったなあ…」
小学1年生の頃、野中は中日の谷沢健一のサインが入った帽子を、そうとは知らずにかぶっていた。すると、周囲の大人が野中に話しかけてきた。
「おっ、谷沢のサイン入りの帽子じゃねえか」
谷沢とはどんな人だろうかと思い、1人で自宅の一宮市から中日スタヂアム(中日球場)に向かった。外野席からグラウンドを見ると、赤いグラブをはめている選手がいた。谷沢だった。グラブを垂らして一塁を守っている姿はまぶしかった。それ以来、片道2時間の道のりも苦痛に思わず何度も球場に通った。
「谷沢さんの姿はめちゃくちゃ格好よかった。あれからですよ、将来はプロ野球選手になろうと思ったのは……」
野中は中日のファンだったが、テレビでは巨人戦も中継されていた。プロ野球といえばセ・リーグというイメージが頭にこびりついていた。
だから杉浦から「どこに行きたい?」と問われた時、はっきりと「巨人か中日」と伝えていた。
しかし、ドラフト会議当日の11月22日。体育の授業中に、野中は体育教官室に呼ばれた。部屋に入ると、ある先生がこう言った。
「阪急だったなあ……」
「えっ!」
思わず野中は驚きの声を上げていた。テレビを見ると、間違いなく阪急が自分を指名している。それも1位で。「阪急ってどんな球団なんだろう……」。まったくイメージが湧かず、疑問符ばかりがついてまわる。ただ、自分の夢はプロ野球選手になることだった。
迷った末に阪急入りを決断。球団からはエースが付ける背番号18を授けられた。しかし阪急入団後のプロの世界は、苦悩することばかりの道のりだった。