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ドラフト1位指名から7年、野中徹博は中華料理屋で「ラーメンのダシ」をとっていた…甲子園の英雄が阪急で味わった“一度目のプロ生活”の苦しみ

posted2023/06/25 11:01

 
ドラフト1位指名から7年、野中徹博は中華料理屋で「ラーメンのダシ」をとっていた…甲子園の英雄が阪急で味わった“一度目のプロ生活”の苦しみ<Number Web> photograph by KYODO

1984年、プロ1年目の野中徹博。前年のドラフト会議で阪急に1位指名された右腕を待ち受けていたのは「いばらの道」だった

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田中耕

田中耕Koh Tanaka

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甲子園通算10勝3敗、防御率0.79という圧倒的な数字を残した中京高校3年生の野中徹博は、少年時代に思い描いた「プロ野球選手になる」というサクセスストーリーの真っ只中にいた。そして迎えた1983年11月22日のドラフト会議。野中は1位指名を受けた阪急への入団を決意するが、プロ野球選手としての日々は輝かしいものではなかった。出口のない暗闇のトンネルをさまよう、過酷な道のりが待ち受けていた。(全4回の2回目/#1#3#4へ)※文中敬称略

 夏の甲子園が終わってからしばらくして、野中徹博は中京高校の監督・杉浦藤文から「12球団から声が掛かっているぞ」と告げられた。

「お前はどこに行きたい?」

 そう問われた時に、野中は初めてプロ野球選手に憧れた日のことを思い起こした。

運命のドラフト会議当日「阪急だったなあ…」

 小学1年生の頃、野中は中日の谷沢健一のサインが入った帽子を、そうとは知らずにかぶっていた。すると、周囲の大人が野中に話しかけてきた。

「おっ、谷沢のサイン入りの帽子じゃねえか」

 谷沢とはどんな人だろうかと思い、1人で自宅の一宮市から中日スタヂアム(中日球場)に向かった。外野席からグラウンドを見ると、赤いグラブをはめている選手がいた。谷沢だった。グラブを垂らして一塁を守っている姿はまぶしかった。それ以来、片道2時間の道のりも苦痛に思わず何度も球場に通った。

「谷沢さんの姿はめちゃくちゃ格好よかった。あれからですよ、将来はプロ野球選手になろうと思ったのは……」

 野中は中日のファンだったが、テレビでは巨人戦も中継されていた。プロ野球といえばセ・リーグというイメージが頭にこびりついていた。

 だから杉浦から「どこに行きたい?」と問われた時、はっきりと「巨人か中日」と伝えていた。

 しかし、ドラフト会議当日の11月22日。体育の授業中に、野中は体育教官室に呼ばれた。部屋に入ると、ある先生がこう言った。

「阪急だったなあ……」

「えっ!」

 思わず野中は驚きの声を上げていた。テレビを見ると、間違いなく阪急が自分を指名している。それも1位で。「阪急ってどんな球団なんだろう……」。まったくイメージが湧かず、疑問符ばかりがついてまわる。ただ、自分の夢はプロ野球選手になることだった。

 迷った末に阪急入りを決断。球団からはエースが付ける背番号18を授けられた。しかし阪急入団後のプロの世界は、苦悩することばかりの道のりだった。

【次ページ】 投球練習中の鈍い音「右肩が吹っ飛んだかと…」

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