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「ドラ1指名から14年かけてプロ初勝利」野中徹博はなぜ引退後に“探偵業”を志したのか? 激動の人生を歩んだ右腕が語る「失敗のススメ」 

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田中耕

田中耕Koh Tanaka

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posted2023/06/25 11:03

「ドラ1指名から14年かけてプロ初勝利」野中徹博はなぜ引退後に“探偵業”を志したのか? 激動の人生を歩んだ右腕が語る「失敗のススメ」<Number Web> photograph by Koh Tanaka

波瀾万丈の半生を振り返る野中徹博。58歳となった現在は、島根県の出雲西高校で野球部の監督を務めている

ドラフト1位指名から14年、ついにプロ初勝利

 キャンプ、オープン戦と順調な調整が続き、開幕一軍に登録された。そして1997年5月27日の横浜戦。リリーフで登板した野中は、1983年のドラフト指名から14年の歳月をかけてプロ初勝利を手繰り寄せた。

 この試合は野中にとって感慨深いものだろうと思い、当時の一挙手一投足を詳細に語ってくれることを期待していた。だが、彼の口からは意外な言葉が漏れた。

「いやあ、実はあの時どういう場面で、何イニング投げたのかよく思い出せないんですよ(笑)。でも野村監督の『打たれる。四球を出す。この二大恐怖を抱いてはいけない』という言葉を思い出しながら投げたんじゃないかな……」

 5回途中から登板し、1回と3分の1を無失点。当時の新聞には「苦節14年、初勝利」「32歳苦労の初勝利」といった見出しが躍った。

「初勝利と言っても、僕の中では勝ち投手とは先発投手がもらうものというのがあったから、なんだか恥ずかしくて、照れ臭かったですね(笑)」

 このシーズンは44試合に登板し、2勝3敗、防御率2.28、投球回数55回3分の1。古田からも「野中は自分でピッチングを組み立てられる投手」と絶賛されるほどの中継ぎの柱として、リーグ優勝、日本一に貢献した。月日はかかったが、高校時代にも達成できなかった頂点に上り詰めたのだ。

 翌1998年、野中は坐骨神経痛を患い、登板機会が激減。3度目の戦力外通告を受ける。しかし、その心は晴れやかだった。

「もう野球に未練はありませんでした。野球ができないという最大の苦しみを乗り越えて、ここまでやれたので……」

 野球界の内側と外側で過酷な経験をしたからこそ、野中はどんなことがあっても腐らなかった。二軍に落とされても、自分のやるべきことは手を抜かずやってきたという自負がある。その芯の強さが、現役晩年にヤクルトで花を咲かせることにつながった。

 2度目の引退後、野球界に残ってコーチになるという考えはなかった。野中の次なる目標は、起業して社会に貢献することだった。そのためには、一から勉強する必要があった。1度目の引退後、知人の後押しを受けて広告代理店を立ち上げた経験はあったが、本格的に自分の力で会社を興すには知見も腕力も足らず、社会人としてまだまだ未熟だった。

 求人雑誌を見て応募した医療メーカーに3年間勤務した。新人教育担当や店舗拡大のために市場調査を任された。仕事のやりがいは間違いなくあった。

【次ページ】 なぜ「探偵」の仕事に就いたのか

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