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ベーブ・ルースの娘が「ニッポンの女学生はお気の毒」逸話も…野球の神様ルースが日本で最後にプレーした野球場の悲しき歴史、なぜ“消えた”? 

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鼠入昌史

鼠入昌史Masashi Soiri

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posted2023/04/29 11:03

ベーブ・ルースの娘が「ニッポンの女学生はお気の毒」逸話も…野球の神様ルースが日本で最後にプレーした野球場の悲しき歴史、なぜ“消えた”?<Number Web> photograph by Getty Images

1934年の日米野球で来日していたベーブ・ルース。豪快な予告ホームランを放つなど、数々の伝説を残している(写真は1920年撮影)

 宇都宮での最終戦もまったくふるわず、4回まで投げて与四球9・被安打6・被本塁打3で9失点という散々な結果に終わっている。その中でも5つの三振を奪っているあたりは、日本一の好投手の面目躍如といったところだろうか。

 結局、宇都宮での最終戦は14−5で全米軍の圧勝。全日本も7安打を放って5点を取っているのだが、長打は一本も出なかったとか。埋めがたいパワーの差を見せつけられた、日米野球であった。

ルースの娘が「ニッポンの女学生はお気の毒」

 ちなみに、全18試合でアメリカは47本ものホームランを放ち、終始日本を圧倒している。日米野球のホームラン王は13本のベーブ・ルース。打率は4割超、打点も33の“三冠王”だった。

 また、このときの日米野球にベーブ・ルースは娘(養女)のジュリアを同伴していた。ジュリアが日本の女学生を見て、みな制服に身を包んでオシャレもしないし化粧もしない、男友達とダンスやシネマに遊びに行くこともないことを「お気の毒」と評した記事が、当時の読売新聞に載っている。

“消えた野球場”…跡地は小学校になっていた

 さて、そんなこんなで日米野球最終戦の舞台になった宇都宮常設球場は、戦時中一時的に高射砲陣地になって防空壕も構築されるなど野球場としての機能を失うことになる。球場のすぐ南側、いまではSUBARU航空宇宙カンパニーの工場が置かれている一帯には、陸軍機の組み立てを行う中島飛行機宇都宮製作所があった。だから空襲で狙われることもあっただろう。

 戦後になると、再び小野春吉さんが35万円を投じて球場を復旧させ、中等野球・高校野球も行われるようになった。しかし、西川田に県営球場が建設されたことや、人口の急増に伴って新たな小学校の建設が急がれたこともあって、1960年を限りに宇都宮常設球場は歴史の幕を閉じた。そして、跡地はそのまま宇都宮市立宮の原小学校となり、今に続いている。宮の原小学校の校門のすぐ脇には常設球場の記憶を留める碑が建つ。また、2019年には創立50周年記念イベントとして児童や地域住民662人がバットとボールの人文字をつくり、ギネス世界記録に認定されるなど、“常設球場”の存在はいまに受け継がれている。

 宇都宮では、いまも清原球場でプロ野球の公式戦が行われている。数年に一度ではあるが、あんがいに野球と宇都宮の関係は深い、ということだろう。日米野球という点では、戦後も3度にわたってメジャーリーガーが宇都宮を訪れて勇姿を披露している。ただし舞台は常設球場ではなく県営球場だった。1951年にはジョー・ディマジオ率いる全米軍が巨人軍と、1956年にはブルックリン・ドジャースが全日本と、1962年にはデトロイト・タイガースが巨人・大毎連合軍と対戦。51、56年は日本が敗れているが、62年には連合軍が6−3で勝利した。長嶋茂雄が4打数3安打2打点の大活躍であった。こうして少しずつ、日本の野球はアメリカの野球に近づいていったのである。その足跡は、全国各地の地方球場にも刻まれているのだ。

<《ベーブ・ルース日本での豪快伝説》編から続く>

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。

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