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ベーブ・ルースの娘が「ニッポンの女学生はお気の毒」逸話も…野球の神様ルースが日本で最後にプレーした野球場の悲しき歴史、なぜ“消えた”?
posted2023/04/29 11:03
text by
鼠入昌史Masashi Soiri
photograph by
Getty Images
ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグらを擁する最強オールスター軍団が来日した1934年の日米野球。11月からはじまった日本各地での転戦は、月が変わった12月1日に第18戦、最終戦を迎えた。その場所は、宇都宮――。1カ月におよぶスター軍団の全国転戦の最終戦が宇都宮というのは、ちょっと意外な気がしなくもない。ふつうなら、神宮球場や甲子園球場といった、その時代において日本を代表するスタジアムが選ばれそうなものだ。
それでも1934年12月1日、日米野球最終戦が宇都宮市街地の南東部にあった宇都宮常設球場で行われたのはれっきとした事実である。さすがに12月の宇都宮は寒く、ベンチに炭火をおこして暖を取った、という逸話が残っている。
さて、ここでの主役はその最終戦の舞台になった宇都宮常設球場である。宇都宮の野球場というと、プロ野球のオープン戦なども開催されてきた宇都宮清原球場、またここ数年高校野球県大会決勝が行われている栃木県総合運動公園野球場などが代表的だ。が、そのどちらでもなく、宇都宮常設球場というなんとも武骨な名前の野球場で、約90年前の日米野球最終戦が行われた。いったい、どんな球場だったのか。
宇都宮には“野球場”がなかった
宇都宮常設球場は、1932年4月18日にオープンした、その名の通り宇都宮市内では最初の“常設”球場だった。それまで宇都宮での野球の試合は学校のグラウンドなどを利用していたという。まだプロ野球のような興行があるわけでもなく、人気の大学野球もその中心は東京だ。地方都市の宇都宮で常設の野球場がなかったのもムリのない話であった。
そこで、当時の地元の有力者で宇都宮野球協会会長だった小野春吉さんという人物が、私財を投じて球場をつくった。敷地5500坪を借り受けて、15000円で球場を建設。収容人員は実に2万人。いまなら2万人規模のスタンドを持つ球場を地方都市に新たに作ろうとすれば、市議会や地元メディアを巻き込んでいろいろと荒れそうだ。が、戦前、昭和初期という時代もあったのだろう。小野さんが自分のおカネでやろうというのだから、誰も文句は言えない。
そうして1932年4月、宇都宮常設球場のこけら落としは、当時の野球人気のトップに君臨していた早稲田大学と慶應義塾大学のOB戦、すなわち“三田稲門戦”。4月18日、開場式に続けて試合が行われ、大熱戦の末に10−9で稲門が勝利している。
「野球場前駅」も誕生した《現地取材》
また、宇都宮常設球場の開場にあわせ、最寄り駅も誕生している。球場開場の前日、4月17日に開業した最寄り駅は東武鉄道宇都宮線野球場前駅。