ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
“掟破りの顔面蹴り”はオカダと清宮の大乱闘に発展…35年前、長州力vs前田日明の「顔面襲撃事件」を振り返って考える“スキャンダルの功罪”
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by東京スポーツ新聞社
posted2023/02/03 17:00
1月21日、清宮海斗のオカダ・カズチカへの顔面蹴りは場外乱闘へと発展
長州vs前田の「顔面襲撃事件」はいかにして起こったか?
この清宮のオカダに対する顔面蹴りを見て、キャリアの長いファンの中には35年前に起こった“あの事件”を思い出した人もいたことだろう。そう、1987年11月19日後楽園ホールでのタッグマッチで前田日明が長州力の顔面を背後から蹴り、眼窩底骨折の重傷を負わせた「顔面蹴撃事件」だ。
あの事件はなぜ起きたのか。オカダvs.清宮への理解を深めるためにも、あらためて振り返ってみよう。
80年代後半、新日本プロレスは混沌とした戦国時代を迎えていた。80年代前半に空前のプロレスブームを巻き起こした新日本だったが、1984年に起きた選手大量離脱後、エース・アントニオ猪木の体力的な衰えもあり人気が低下。そのテコ入れのために、1986年1月から一度は新日本を離脱した前田率いるUWFと業務提携を結び対抗戦に突入する。
シビアな格闘プロレスを標榜するUWFとの闘いは“イデオロギー闘争”と呼ばれコアなファンの人気を呼んだが、以前の日本人vs.外国人のような善悪がハッキリしたわかりやすい構図ではなかったため大衆にはウケず、テレビの視聴率は低迷。かつて20%以上が当たり前だった視聴率は10%そこそこにまで落ち込み、放送の時間帯も伝統の金曜夜8時から月曜夜8時に移行。ゴールデンタイムからの撤退もささやかれるようになる。
そこで、さらなるテコ入れとして計画されたのが、長州の復帰だ。長州は84年に配下の選手を引き連れ新日本を離脱し、新団体ジャパンプロレスを結成、85年からライバル団体の全日本プロレスに参戦していたが、猪木からの水面化でのラブコールを受け新日本復帰を決意。全日本マットに別れを告げ、87年春から再び軍団を引き連れ新日本にカムバックした。こうして新日本マットは、UWFと長州軍団という二つの大きな外様勢力を抱える戦国時代となる。
世代闘争の終息、長州と前田は“冷戦状態”に
長州軍団の新日本参戦は大きな話題を呼んだが、こうなると面白くないのが前田らUWF勢だ。新日マットは長州を中心に回り始め、自分たちの立場が危うくなったことで、前田は長州と静かに対立。これがその後の火種となってしまう。
87年6月、新日本マットは大きく動き出す。6.12両国国技館で猪木がマサ斎藤を破りIWGPリーグ戦優勝を果たすと、試合後に長州がリングイン。そしてマイクを握り「世代交代だ! いましかないぞ、俺たちがやるのは!」と、藤波辰爾、前田らに決起を促し、一丸となっての打倒猪木を宣言。これを受けて猪木も宿敵であり、同世代の戦友であるマサ斎藤とガッチリ握手。猪木、マサ、坂口征二ら旧世代軍と長州、藤波、前田ら新世代軍による「新旧世代闘争」が勃発した。
こうして長州と前田は一応共闘するようになるが、それは時限爆弾を抱えたままの危うい呉越同舟でしかなかった。この世代闘争は最初こそファンの関心を呼んだが、8月の天王山決戦である両国2連戦を旧世代軍の副将格マサ斎藤がアメリカから帰国できずに欠場。猪木はマサの代わりとなるパートナーにまだ若手だった武藤敬司を指名したことで、新旧対決の構図が崩れ、抗争は尻つぼみに。そうこうしているうちに猪木が「巌流島の決闘」をぶち上げ、再びマサ斎藤との抗争をスタートさせたことで、世代闘争はわずか3カ月でうやむやのうちに終息してしまったのだ。
こうして長州が呼びかけた世代交代は失敗に終わった。“革命”が頓挫したあと待っているのは内ゲバだ。長州と前田は再び冷戦状態に突入する。そして運命のいたずらか、よりによってそんなタイミングでふたりのタッグ対決が組まれてしまったのだ。