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「丸刈り強制なし、練習は2時間だけ」“普通の”県立高校陸上部の奇跡…20年前、なぜ全国高校駅伝で準優勝できた?「ヤバかった練習方法」
text by
山崎ダイDai Yamazaki
photograph byKYODO
posted2022/12/25 11:00
2002年12月の全国高校駅伝男子。2位でゴールする佐賀県立白石高校の最終走者・田上貴之
「ほかのチームだと驚かれると思いますけど、大会とかで遠征があるときも練習以外の時間は普通に自由時間で、4人でゲームセンターに行ってプリクラ撮ったりしていましたね」
松瀬もこう振り返る。
「三原先生が出張とかになると、高井が『俺は今日はサボる! 走らない!』とか言い出すんです。『どうせバレてまた怒られるぞ』と言って窘めたりして、よくケンカになっていました(笑)」
ただし、そんな自由さの反面、学業等や学校行事への手心は一切なかった。だからこそ、そこは必死だったという。
「もっと遊びたかったなとか、普通の高校生活をしたかったとか、そういう後悔は全然ないです。でも、いま社会人になって振り返ると、日ごろからもう少しちゃんと勉強しておけばよかったな……とは思います」(田上)
異例のトレーニング法「各自ジョグなし」
一方で、限られた時間のなかで反比例するようにトレーニングの質は上がっていった。友廣が苦笑する。
「僕と田上は練習後、先生に学校から最寄りの駅まで車で送ってもらっていたんです。それもあって、早く練習を終わらせないと『もう出発するぞ~』となっちゃう(笑)。寮があるわけじゃないので、『もうちょっとやります!』とかはできない。でも、練習量を減らすわけにはいかないから、必然的にレストが短くなっていきました」
時間短縮のために、インターバルの“つなぎ”はどんどん短くなった。
ペース走の基本ペースも、日に日に速くなった。
他チームでは休養にあたるような、フリーの各自ジョグもなかったという。松瀬が言う。
「走るときはいつも4人で競り合っていたので。大学に入ってから『今日は各自、ジョグね』みたいに言われて、『えっ、ひとりで走るの?』ってなりましたから」
限られた時間しかなかったことで、かえって練習強度は高まり、4人の才能の天井はどんどん引き上げられていった。
「高2のときは、出場すらできなかった」
高井は1年目の春こそ故障に苦しんだが、夏合宿以降は急成長。一気にチームの主力にジャンプアップした。2年時は田上が故障で1年を棒に振ったものの、残りの3人はエース格に成長。一方で高校駅伝では、県予選で高井が1区でブレーキを起こし、都大路への出場はならなかった。
ようやく4人の足並みがそろってきたのは、3年目の夏ごろだったという。