プロレス写真記者の眼BACK NUMBER
「もし大怪我させていたら永久追放でしょうね」藤波辰爾がいま明かすドラゴン・スープレックス誕生秘話「ゴッチさんを投げるわけにも…」
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2022/11/20 17:06
1978年3月、日本初公開となった藤波辰巳(現・辰爾)のドラゴン・スープレックス・ホールド。相手はマスクド・カナディアン
MSGで初披露した大技に周囲の反応は…
「結果次第で、日本に凱旋できるかどうかが決まる。テレ朝から舟橋慶一さんら放送スタッフが来ていて、東スポの桜井康雄さんもいた。アメリカの雰囲気も知っているけれど、MSGはビビるね。熱気というか、名前がね。誰にでも上がれるところじゃない。花道から会場に入っていくけれど、何とも言えない圧力に押し戻されるような感じでした」
かつてテレビで見ていたMSGの中央のリングに、24歳の藤波は立っていた。
「期待されているのを感じました。試合前に新間さんが『なんかやれよ』とか無責任なことを言うから(笑)。それで、フルネルソンからのスープレックスが炸裂したわけです。やっているうちに無意識のうちに出た。エストラーダが柔軟だったからよかったですよ。頭からリングに突き刺さるような感じだった。よく怪我しなかったと思う。もし大怪我させていたら、リングから永久追放されたでしょうね」
藤波が初披露したスープレックスに、客席は水を打ったようにシーンとしていた。レフェリーに手を上げられても、どうしていいかわからなかった。現地のファンも、信じられないものを見た衝撃に反応が遅れたのだろう。パラパラと拍手があって、スタンディングオベーションが続いた。
「意気揚々控え室に戻ったら、針のむしろですよ。ブルーノ・サンマルチノ、ゴリラ・モンスーン、ペドロ・モラレスらがいましたが、変な空気で、冷ややかな視線を浴びた。息が詰まるような感じで、汗を拭くような仕草を見せてタオルだけ持って控室を出ました」
新間に「いや、すごい! よかったよ」と声をかけられたが、気まずさが先行していた藤波は「何がよかったんですか。控室行ってみてくださいよ。人の気も知らないで」と応じたという。
「でもその後、プロモーターのビンス・マクマホン(・シニア)が『よかったよ。フィニッシュも素晴らしかった』と絶賛してくれた。アメリカもプロレスを変えたいときだったんでしょうね。ほっとしましたよ。翌日には日本からFAXが送られてきて、技にはもう名前がついていました」
技名は“ドラゴン・スープレックス(飛龍原爆固め)”。こうして、藤波はWWWFジュニア・ヘビー級王者という看板を引っ提げて凱旋することになった。