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「もし大怪我させていたら永久追放でしょうね」藤波辰爾がいま明かすドラゴン・スープレックス誕生秘話「ゴッチさんを投げるわけにも…」 

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原悦生

原悦生Essei Hara

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posted2022/11/20 17:06

「もし大怪我させていたら永久追放でしょうね」藤波辰爾がいま明かすドラゴン・スープレックス誕生秘話「ゴッチさんを投げるわけにも…」<Number Web> photograph by Essei Hara

1978年3月、日本初公開となった藤波辰巳(現・辰爾)のドラゴン・スープレックス・ホールド。相手はマスクド・カナディアン

カール・ゴッチの熱血指導で「体がバキバキに」

 話は“黄金時代”の数年前、藤波辰巳の海外修業時代に遡る。

「海外は新間寿さんに『行け』と言われました。マンネリ化を防ぐためだったのでしょう。僕と木戸(修)さんは西ドイツのトーナメントに10カ月。それでもまだ、帰国にふさわしい話題がなく中途半端でした。それからアメリカのフロリダに行って、カール・ゴッチさんのところで毎日寝泊まり。本格的な格闘技漬けでした。ゴッチさんはアメリカンプロレスが嫌いだったから、ガチガチで本当にパンクラチオンみたいで(笑)。日本から月刊の『プロレス』とか『ゴング』といった雑誌が届いても『こんなもの見るな』と没収されました。ただただ『ここで練習すればいいんだ』と」

 フロリダにはNWAの本部があって、エディ・グラハムらがいたが、藤波は会場に試合を見に行ったことがない。

「アメリカにいるのに試合も見に行けない。毎日が練習でした。日中の練習のないときは『これ見てろ』って、ゴッチさんから表紙の硬い格闘技の分厚い本を渡されて、部屋で眺めていた。英語で書いてあるから、関節技の絵だけ見ていましたけど(笑)。ゴッチさんの家の周りには大きな池があって、そこにミカンの木が十数本植わっていた。その日陰の芝生の上に薄いシートを敷いて練習しました。ブリッジと寝技が中心です。大きな木の枝にぶら下がったロープによじ登ったり、ゴッチさんに足を持ってもらって鉄棒で弓なりに体を引き揚げたり……。吊り輪で十字懸垂、できましたからね。軽いし、バキバキだったものね。体操選手と一緒。鉄アレイとかはありません。いわゆるボディビルなんかやったことない」

 日本からは「藤波の仕上がりはどうだ?」という連絡がたびたび入っていたが、完璧主義者のゴッチは「まだまだ、ダメだ」と答えていたようだ。

「そのうち『アメリカで試合したいか?』って聞かれました。もちろん試合はしたいから、ノースカロライナで1年くらい。出番はだいたい3試合目か4試合目でしたね。当時、日本人は東洋の陰湿な反則イメージのタイツをはかされて、裸足で、ヒゲ生やして、というのがセオリーだった。猪木さんも馬場さんもそれをやってきたんだけれど、ゴッチさんは『藤波は裸足ではやらせない』と。普通のリングシューズとタイツをはいた日本人レスラーは僕が初めてでしょう」

 確かにそう言われると、アメリカ人にとってのプロレスにおける東洋人のイメージはそういうものだった。ヒロ・マツダでもマサ斎藤でもそうだった。

【次ページ】 ドラゴン・スープレックス開発の経緯とは?

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