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「もし大怪我させていたら永久追放でしょうね」藤波辰爾がいま明かすドラゴン・スープレックス誕生秘話「ゴッチさんを投げるわけにも…」
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2022/11/20 17:06
1978年3月、日本初公開となった藤波辰巳(現・辰爾)のドラゴン・スープレックス・ホールド。相手はマスクド・カナディアン
帰国後、空前のドラゴンブームが到来
羽田空港に降り立った藤波は驚いた。
「行くときは誰も見送ってくれなかったのに、ファンがいっぱいいるんです。半分はサクラで新日本プロレスの仕掛けだったのかもしれないけれど、海外のアーティストみたいな出迎え方で、後ろから誰か来るのかと振り返ってしまいました(笑)」
1978年3月3日、高崎市体育館。相手はマスクド・カナディアン。無名時代のロディ・パイパーがマスクマンになった姿だった。ニューヨークでの一撃があまりにも刺激的だったので、ファンからはドラゴン・スープレックスが熱望されていた。筆者も実際にリングサイドで目にして、「これがドラゴン・スープレックスか」とその威力に納得した1人だ。
「でもね、乱発しちゃうんです。歌手のヒット曲と一緒。それを見ないとお客さんが満足しないから。後のドラゴン・ロケットもね」
一気にスターダムに駆け上った藤波が、「テレビの勝利者インタビューで、なんかしゃれたことを言わなきゃいけない」と考えて飛び出したのがこの言葉だった。
「I never give up!」
1981年12月、空前のドラゴンブームの中、藤波は伽織(かおり)夫人と結婚した。
「何歳で結婚しようかとは考えていなかった。結婚するとファンの反応が違いますから。会社からは『人気のある時に結婚されちゃ困る。3年間は結婚するな』と言われた。でも、なんか28歳という数字が浮かんだんです。猪木さんが倍賞美津子さんと結婚したのが28歳のときだからかなぁ」
藤波の結婚披露宴は、猪木と同じ京王プラザホテルで1200人以上を集めて行われた。親族や関係者だけでなく、多くのファンも入り乱れていた。
「お色直しの後、家内は高砂へ、ぼくは逆側に幕が開いてリングの方へ。披露宴で試合ですよ(笑)。猪木さんも、新日本プロレスも驚かすことが好きですからね」
<#3へ続く>
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