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「もし大怪我させていたら永久追放でしょうね」藤波辰爾がいま明かすドラゴン・スープレックス誕生秘話「ゴッチさんを投げるわけにも…」
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2022/11/20 17:06
1978年3月、日本初公開となった藤波辰巳(現・辰爾)のドラゴン・スープレックス・ホールド。相手はマスクド・カナディアン
「フロリダから来たというと、『ゴッチの所から来たからこいつは要注意だな』と思われた。だから、なんか仕掛けられたりとかはありませんでしたね。逆に、相手に恐怖を感じさせたことはあったかもしれない。主にアメリカの中部、テネシー、ジョージア、バージニア、ノースカロライナをサーキットしたんだけれど、いいところでしたよ。リック・フレアーの人気が出てきた頃だった」
ドラゴン・スープレックス開発の経緯とは?
海外で過ごした3年8カ月の間に、藤波は多様なプロレスを自然に見ることになった。
「ゴッチさんは僕をアメリカに長く置きたくなかった。変なことしか覚えないから、って。それで、メキシコに行ったんです。ドイツで基本を、アメリカでショーマン的なものを、そしてメキシコでは動きの速いルチャリブレを。いろいろなプロレスを体感できましたね」
海外生活で苦労したことはなかったのだろうか。
「メキシコでもどこでも僕はすぐに馴染んじゃう。嫌いなところはないです。たとえ秘境でも秘境にならない。楽しかったですよ。日本に帰りたいと思うこともたまにはあったけれど、旅が好きだから、『今度はどこに行こうかな。また、アメリカに行こうかな』と。アメリカにも友達ができたので、次の居場所を探せました。どこの州にもプロレスはあったから」
藤波といえばドラゴン・スープレックスだが、当時、どんな練習をしていたのだろうか。
「ゴッチさんの所での練習はブリッジで始まってブリッジに終わるようなもの。とにかくまずは首の鍛錬。ジャーマン・スープレックスをやるにも首をちゃんとしないと。100キロ以上の重みが、自分に落ちてくるわけですから」
あるとき、ゴッチが言った。「スープレックスにはまだ種類がある。誰もやったことがないし、危険も伴うけれど、相手を羽交い絞めにして、そのまま反って投げるものもある」と。
「そう言われても想像がつかなかった。まさか、ゴッチさんを試しに投げるわけにもいかない(笑)。80キロくらいのダミーの人形を相手に練習しました。棒みたいで腕が短いんですよ。すべって何回顔面に落っこちてきたことか……」
1978円1月23日、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデン(MSG)でタイトル挑戦のチャンスが巡ってきた。「MSGに行くか?」と聞かれ、藤波はもちろん「Yes」と答えた。プエルトリコのカルロス・ホセ・エストラーダが保持していたWWWFジュニア・ヘビー級王座に挑戦したのだ。