Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER
千代の富士は「この世界でしか生きられない不器用な人だった」かつての朝潮が語る“昭和の大横綱の素顔”とは
text by
佐藤祥子Shoko Sato
photograph byNaoya Sanuki
posted2022/07/31 11:00
圧倒的な強さを誇った、昭和の大横綱・千代の富士
「彼が一番苦手だった相手は隆の里でしょう。同じ右四つで、がっぷり組んだ力相撲では勝てない。だから千代の富士はスピード相撲で来たんだよね。それまでの横綱と違い、今までにないアスリートのような体で“新しい横綱相撲”を作り上げたのは、まさに千代の富士だったと言える」
師匠・北の富士が「そっくりだよ」と挙げた力士とは
同門ゆえ、ふたりは出稽古や巡業などで顔を合わせることも多かったという。同時代を生きた男として、千代の富士の姿は朝潮の目に、いかように映っていたのか。
「とにかく気が強くて感情の起伏が激しく、よく泣く。後年、師匠の北の富士さんが、『朝青龍にそっくりだよ』と言っていたものです。千代の富士は、口にする言葉は荒っぽかったかもしれないけれど、けして中身はそうじゃなかった。よくも悪くも、この世界でしか生きられない――相撲界だからこそ、その存在がいきた人だった」
平成3年5月夏場所4日目、千代の富士は現役引退。翌年には九重部屋を継承した。優勝31回を誇り、角界初の国民栄誉賞を受賞した大横綱ゆえ、ファンの誰もが、「いずれ相撲協会理事長として君臨するに違いない」と想像したことだろう。しかし、理事3期目、協会ナンバー2の事業部長の要職にいた平成26年、まさかの理事選挙落選の憂き目にあった。
「理事長になりたかったでしょう。ストレートに行けば、順番を待てばいいだけなのに、先を急いで策を練りすぎた。ガツガツと行きすぎちゃったのか……。ある面、不器用な男だったと私は思う。時代の寵児となり、国民栄誉賞をもらってから、それがプレッシャーとなったのではとも思うんです。大関で終わった私には計り知れない、大横綱のプライドでしょう。現役時代も親方時代も、『もっともっと』『俺が、自分が』と、ずっと戦い続けた人生だったと思う。いやぁ……疲れた人生だったろうな、と」
享年61。
「お互い、去年還暦を迎えたばかりでさ。生き急いだよな」と朝潮はポツリとつぶやき、千代の富士に献杯するかのように、焼酎グラスを飲み干していた。