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千代の富士は「この世界でしか生きられない不器用な人だった」かつての朝潮が語る“昭和の大横綱の素顔”とは
posted2022/07/31 11:00
text by
佐藤祥子Shoko Sato
photograph by
Naoya Sanuki
大鵬、北の湖、そして千代の富士――。昭和の大横綱が、またひとりこの世を去った。今、同じ一門の大関として互いに鎬(しのぎ)を削った元朝潮の高砂親方が、知られざる千代の富士の素顔を語る。かたや北海道の小さな町から、15歳で入門した叩き上げ。こなた学生相撲出身のエリート――ともに昭和30年生まれの同学年だった。
「実は、私が初めて千代の富士と胸を合わせたのは、近畿大学3年時の昭和51年、大阪場所前のこと。当時、いろいろな部屋に近大相撲部が出稽古に行っていたんです。この時の私は、千代の富士相手にガンガン勝ったんですよ」
この日以降、2年連続学生横綱・アマ横綱となった当時の長岡――高砂親方が、40年前の在りし日に思いを馳せる。この時の千代の富士は、前年9月秋場所で幕内に昇進するも、右肩の脱臼で幕下まで番付を落としていた。「だからそれほど印象もなく、私が入門してからも、特別に意識する存在ではなかった」と述懐する。
幕下付出しからのスピード出世で、千代の富士とのプロ初対決は昭和53年11月、九州場所のこと。「長岡」の四股名で、前頭10枚目だった千代の富士を小手投げで下す。
「最初のうちは私のほうが番付は上だった。こっちが幕内上位でもたもたしているうちに、いつのまにか千代の富士に抜かれてしまったんです。彼は脱臼癖を直すために、鋼の肉体を作って生まれ変わっていた」
2度の優勝を経た千代の富士は、昭和56年7月の名古屋場所後に横綱昇進。以来、朝潮は横綱千代の富士戦4連勝が1度、24連勝、20連勝をストップさせてもいる。ふたりの生涯対戦成績は、千代の富士31勝、朝潮の15勝だった。
「彼は右四つで私は左四つ。組み勝ったら一気に持っていける。立ち合いに頭から行って、前褌(まえみつ)を取らせなければよかったんです。でも、左上手でまわしを取られたら、もうダメ。小力(こぢから)――腕力が強いんですよ」
ここ一番で絶対に勝つのが千代の富士なんですよ
千代の富士が横綱昇進後、初優勝を飾った、昭和56年11月九州場所。本割では小結朝汐(当時)が一気に押し出すが、優勝決定戦では前褌を許し、一気に寄り倒されての逆転負け。千代の富士に賜杯を奪取される。対千代の富士の2度の決定戦に、2度屈す。
「なによりも肝心なところで、ここ一番で絶対に勝つのが千代の富士なんですよ」
対北の湖、双羽黒など、6度を数える優勝決定戦は、すべて千代の富士に軍配が上がっている。しかし、「小さな大横綱」は無敵だったわけではない。対戦成績で負け越しているのが北の湖(6勝12敗)、隆の里(13勝18敗)の両横綱だった。