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敵将も恐れた「ハマの大魔神」佐々木主浩は“ビビり”だった? 重圧と闘い続けたストッパー人生、1998七夕の夜に起きた異変とは 

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鈴木忠平

鈴木忠平Tadahira Suzuki

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photograph bySankei Shimbun

posted2022/07/07 06:00

敵将も恐れた「ハマの大魔神」佐々木主浩は“ビビり”だった? 重圧と闘い続けたストッパー人生、1998七夕の夜に起きた異変とは<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

38年ぶりのリーグ優勝、そして日本一に輝いた1998年のベイスターズ。捕手・谷繁元信と歓喜する佐々木主浩だったが、人知れず重圧と闘っていた

「怖いものなしで、ただがむしゃらに投げられたのはリリーフになった最初の数試合だけ。立場や責任を背負ってからは、この場面はこれだけはしてはいけないとか、こうなったらどうしようとか、投げるたびに怖さが出てきた。ビビリだから、基本的に。ハッタリで自信満々に見せていた」

 仁王立ちから、ぎょろりと打者をにらみ下ろす。その強面の裏に、ガラス細工の繊細さが潜む。これは当時の関係者がよく言うことだ。打者や相手ベンチのちょっとした変化も敏感に察知する。えいやあ、と投げているように見える指先に、これでもかと用心が込められている。だから味方ですら、登板前の佐々木と接する時には日々、変化のないやり取りを旨としたという。

1998年7月7日の夜に起きた「異変」

 あの1998年、佐々木は優勝へ走るチームの先頭にいた。開幕から24試合、1点すら与えることなく、数々の日本記録を打ち立てていった。

 だが、7月7日の阪神戦。大阪ドームで初失点を喫すると、その夜、自分に異変が起きていることに気づいた。

「打たれた後、顔にヘルペスができていた。後にも先にもあんなこと初めて。こんなに張りつめていたんだ。知らない間にこんなに重圧がかかっていたんだってわかった。なんで、ここまで自分を追い込んだんだろうって……」

 次カードからチームは北海道へ遠征だった。人知れず点滴を打った佐々木は、一見、何事もなかったかのように釧路のマウンドにも立ったが、じつはその顔に目立たないように絆創膏が貼られていたことは意外と知られていない。

「ストッパーやってて、投げることを楽しいと思ったことなんてないですね」

 つまり、佐々木を「大魔神」にしていたものは、150キロの剛球でも、お化けのように消えるフォークでもなく、それらと対極にある臆病とも形容できるほどの細心だった。それはセーブを重ねるほどに研ぎ澄まされ、自らの内面をも蝕んだが、佐々木にそこまでさせたのは、背負ったベイスターズにかかわる人たちの情だった。

 だから、昨年の日本シリーズ。ベイスターズの夢が事実上、消え失せた第6戦、9回裏の山崎康晃の1球が悔しくて仕方ない。

【次ページ】 「あれは絶対ダメ。僕だったら外に放っている」

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佐々木主浩
山崎康晃
横浜DeNAベイスターズ

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