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酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
〈甲子園出場vs不出場野手の通算安打番付〉両横綱はイチローと張本勲だけど…大関以下は誰? “エリートと雑草”の好対照ぶり
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byGetty Images/Kou Hiroo
posted2022/03/21 11:04
甲子園出場組、不出場組で最もヒットを放ったのはもちろん、イチローと張本勲。それ以外の選手はどんな面々か
王を筆頭に投手として注目された野手は多い
王貞治もそうだが、高校時代は投手として注目されていた選手も多い。王の前に巨人の正一塁手だった川上哲治は戦前の熊本工時代、夏に2回準優勝している。幕下の柴田勲は法政二の大エースとして夏春連覇している。松井稼頭央、石井琢朗なども投手としての甲子園出場だった。
これ以外にも、高校時代はエースとして活躍した選手がプロ入り後、野手に転向する例は非常に多い。投打に共通する資質を見出されて――ということもあるが、高校時代に肘、肩を酷使したために投手を断念して転向するケースもある。
高校時代から、ずば抜けた打撃で注目されたのが出場組小結の松井秀喜だ。星稜時代は1年生から「恐怖の4番」と言われて「ゴジラ」の異名をとる。3年夏の甲子園では、2回戦の明徳義塾戦で「5打席連続敬遠」。日本高野連に批判が殺到した。筆者は後年、明徳義塾の馬淵史郎監督に別のテーマで話を聞いたが、何も言わないうちから「松井秀喜は別物だったんだよ」と話していたことから、相当なプレッシャーがあったのだと察した。
こうして見ていくと、甲子園最大のスターが即、巨人に入団するというパターンが多いことがわかる。日本野球界のエリートコースだったわけだ。
無名だった野村、金本と長嶋は大学を経て覚醒
それとは対照的に、当然ながら不出場組の多くは、高校卒業時点では全くの無名だった。大関の野村克也は京都北部の峰山時代、高校の恩師が南海の鶴岡一人監督に「一度見てやってくれ」と頼み込んだのがきっかけで入団が決まった。しかし、テスト生であり1年目のオフに解雇されそうになっている。そして3年目のハワイキャンプで鶴岡監督の目に留まり、不世出の大捕手になるのだ。
小結の金本知憲は名門・広陵の中軸打者として広島では知られた存在だったが、甲子園には出場せず。一浪して東北福祉大に入学し、大学屈指の強打者になりドラフト4位で広島に。大卒で2500安打を打ったのは金本だけ。1年遅れていることを考えると驚異的な持久力だ。
前頭の長嶋茂雄は高校時代こそ全くの無名だったが、3年の夏の予選、大宮球場で約107mのライナー性の本塁打を打ったことで注目され立教大学に入学。当時の東京六大学記録となる通算8本塁打を打って花形選手となって巨人に入った。
金本、長嶋だけでなく甲子園に出場していない選手の中には、大学に入ってから頭角を現した選手が多い。