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「石原慎太郎が書いたボクシングの試合は実在した?」のミステリーを追う…14歳石原少年はあの“伝説のボクサー”に夢中になった(らしい) 

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細田昌志

細田昌志Masashi Hosoda

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photograph byBUNGEISHUNJU

posted2022/03/12 17:03

「石原慎太郎が書いたボクシングの試合は実在した?」のミステリーを追う…14歳石原少年はあの“伝説のボクサー”に夢中になった(らしい)<Number Web> photograph by BUNGEISHUNJU

今年2月1日、89歳で亡くなった石原慎太郎。1956年に『太陽の季節』で芥川賞受賞、東京都知事や運輸大臣などを歴任した

 戦前から戦後にかけてのボクシングのスターは“拳聖”ピストン堀口(堀口恒男)だった。堀口の自宅は茅ケ崎。石原家は逗子。往時の資料を手繰ると、ピストン堀口は地元茅ケ崎小学校の校庭や市内の青果市場などで催される拳闘興行に時折出場しているが、近隣に住む石原少年が試合を観戦することはなかった。鼻がつぶれたり、目の腫れ上がった顔の男たちが、癖のあるフォームで構えているポスターの写真を見て《痺れるような戦慄》を感じはしても、町の一角にある遊郭に抱いた本能と同じで、それ以上踏み込みはしなかった。あくまでもポスターを見るだけで満足だったのだ。戦後、拳闘興行が復活しても、少年に観戦の機会は巡って来なかった。当時の心境を彼はこう書いている。

《普段の生活にはあり得ぬなにか荒々しい、血の匂いさえ感じさせる、異形で非日常的なものを感じとり、興味は感じながらもまともに見つめるのをはばかるような気持ちでいた。(中略)

 津々たる興味を抱きながらも、教師たちのいうことをよく聞いていた当時の中学生としては、ポスターを見ただけでも禁忌の匂いのする彼らの試合を敢えて見にいく勇気などありはしなかった》(『わが人生の時の人々』文藝春秋)

石原慎太郎、生まれて初めて見た試合の“ナゾ”

 そんな石原少年に観戦の機会が突如訪れる。ある夏の日曜日に、神戸からやって来た従兄と弟の裕次郎の三人で、「職業野球」と呼ばれていた時代のプロ野球観戦に出かけたのだ。場所は後楽園球場。観戦した試合は《太陽ロビンスとか近畿グレートリングとかのダブルヘッダー》で、二つの試合が終わると、ピッチャーズマウンドにリングが組み立てられたという。球場の係員に質したら「この後、拳闘の試合が始まる」とチラシを渡された。そこには、ピストン堀口、笹崎僙、玄海男といった当代のスター選手の顔と名前がずらり。従兄と石原兄弟は一番安いスタンド二階席のチケットを買って、生まれて初めてのボクシング観戦の機会を得たのだ。

《日が暮れだすと周囲のスタンドに、昼間の野球の観客とは風体も雰囲気も、話す言葉まで違う種類の人間たちが集まってきて、前座の四回戦が始まる頃には日も暮れきって裸に近い粗末な照明がリングを照らしだし、ゴングとともに歓声罵声の下で裸の男たちの殴り合いが始まっていった》(同)

 ともあれ、これは、いつ、どの試合なのか。小説家特有の創作の可能性も否定できない。筆者の生来の習性と言ってしまえばそれまでだが、真偽を確かめたくなった。

 後楽園球場で行われたピストン堀口の試合は、確認できるだけで7試合にのぼる。戦前に1試合、戦後に6試合。1932年生まれの石原慎太郎が戦前に観戦に行けるはずはないから、戦後で間違いない。それも夏だったというから、絞られるのは次の4試合となる。

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