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「石原慎太郎が書いたボクシングの試合は実在した?」のミステリーを追う…14歳石原少年はあの“伝説のボクサー”に夢中になった(らしい) 

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細田昌志

細田昌志Masashi Hosoda

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photograph byBUNGEISHUNJU

posted2022/03/12 17:03

「石原慎太郎が書いたボクシングの試合は実在した?」のミステリーを追う…14歳石原少年はあの“伝説のボクサー”に夢中になった(らしい)<Number Web> photograph by BUNGEISHUNJU

今年2月1日、89歳で亡くなった石原慎太郎。1956年に『太陽の季節』で芥川賞受賞、東京都知事や運輸大臣などを歴任した

 そこで、別の可能性を探ってみた。すると、看過できないのが1947年8月15日である。この日は金曜日なのだが、石原少年は夏休み中の中学生だ。勘違いした可能性も考えられる。それより《神戸からやってきた従兄》と一緒だったのは、夏休みだから可能だったという仮説が成り立つのだ。従兄はこのとき高校生だった。7月14日は夏休みではないが、8月15日は夏休み真っ只中であるのは、今も昔も変わらない。

 さらに、この1947年8月15日の午後にもやはり、プロ野球のダブルヘッダーが行われている。「金星スターズ対南海ホークス」と「太陽ロビンス対中部日本」のダブルヘッダーである。「太陽ロビンス」の名前はある。ただし「近畿グレートリング」の名前はない。しかし、一つの事実に気付く。

 現在の千葉ロッテマリーンズの源流の一つに位置する金星スターズの対戦相手の南海ホークスが、現在の福岡ソフトバンクホークスの前身であることは、多くの読者が記憶しているかもしれない。ただし「南海ホークス」というチーム名になったのは1947年6月、つまり、これは改名して間もない時期だったのだ。では、旧称は何かと言うと「近畿グレートリング」なのである。石原少年が改名間もないホークスをグレートリングと誤って認識していた可能性こそ高いのではないか。

 以上のことを踏まえて、石原慎太郎のボクシング初観戦は1947年8月15日の「堀口恒男(ピストン堀口)対青木敏郎」と断じて間違いないと筆者は考える。このとき石原慎太郎は14歳、中学3年生である。8月15日は、例年靖国神社に参拝していた彼も、終戦翌々年の8月15日に限っては、後楽園球場で野球とボクシング観戦に興じていたものと見ていい。

「昼間の野球なんぞ追いつかぬ興奮」

 かなり前置きが長くなった。では、このとき観戦した試合はいかなるものだったか。読売新聞は手短にこう伝えるのみである。

《堀口兄敗れる 多年リングの王者として君臨したピストン堀口は往年の面影なく完全に敗れ去った》(1947年8月17日付・読売新聞)

 石原自身の記憶は次の通りである。

【次ページ】 「昼間の野球なんぞ追いつかぬ興奮」

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