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「石原慎太郎が書いたボクシングの試合は実在した?」のミステリーを追う…14歳石原少年はあの“伝説のボクサー”に夢中になった(らしい) 

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細田昌志

細田昌志Masashi Hosoda

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photograph byBUNGEISHUNJU

posted2022/03/12 17:03

「石原慎太郎が書いたボクシングの試合は実在した?」のミステリーを追う…14歳石原少年はあの“伝説のボクサー”に夢中になった(らしい)<Number Web> photograph by BUNGEISHUNJU

今年2月1日、89歳で亡くなった石原慎太郎。1956年に『太陽の季節』で芥川賞受賞、東京都知事や運輸大臣などを歴任した

 1946年7月6日・笹崎僙戦

 1946年7月14日・松本圭一戦

 1946年9月21日・青木敏郎戦

 1947年8月15日・青木敏郎戦

 ここで引っかかるのは、昼間にプロ野球のダブルヘッダーがあったことだ。

 話はいささか脱線する。後楽園球場に本格的な照明設備が完成したのが1950年。ナイトゲームもそのとき始まっている。よって、夜間のボクシング興行はリングの四方に簡易の照明が設置されたものと想像できる。つまり、昼夜のダブルヘッダーではなく、昼間にプロ野球を2試合やって、夜にボクシング興行が催されたことになる。時間的にそれは可能なのだろうか。

 疑問は比較的容易に解決した。往年のプロ野球研究家である宇佐美徹也の著書『プロ野球記録大鑑』(講談社)によると、戦後間もない時期のプロ野球の平均試合時間は1時間40分台。試合時間が2時間を突破したのは、1954年まで待たねばならない。今と違って球種もサインもシンプルなこの時代は、試合のテンポが早かったのだ。

 当時の新聞を手繰ると、プロ野球の試合はいずれも「午後1時開始」とある。1試合につき1時間半としても2試合で3時間。途中グランド整備や選手の入れ替えで1時間の休憩を挟んでも、4時間で2試合こなせる計算となる。思えば今も高校野球は、甲子園も地方大会もそれくらいのタイムスケジュールで進行している。現在のプロ野球が時間がかかりすぎなのかもしれない。 

《ある夏の日曜日》は本当か

 石原少年が初めてボクシング観戦した日の詮索に立ち返る。

 彼は著書で《ある夏の日曜日》と書いている。この4試合の中で日曜日に開催されたのは、1946年7月14日の松本圭一戦だけ。思いのほか容易に判明したと胸を撫で下ろすも、ここで別の疑問が生じる。

 この1946年7月14日の午後に行われたプロ野球の2試合は「中部日本対巨人」「阪急ブレーブス対太平パシフィック」の2試合と新聞に明記されている。中部日本は現在の中日ドラゴンズの前身で、阪急ブレーブスは、現在のオリックス・バファローズの前身、太平パシフィックは、この翌年、太陽ロビンスと改称する現在の横浜DeNAベイスターズの源流に位置する球団である。石原慎太郎が戦後間もない少年時代の記憶について、太平と太陽を書き違えても、さほどの違和感はない。

 ただし、引っかかるのは、石原自身《太陽ロビンスとか近畿グレートリングとかのダブルヘッダー》と書いていることだ。なぜ、一番の人気球団の巨人の試合を観戦しているのに、そのことを書き留めなかったのか。終戦翌年の巨人軍と言えば、復員してすぐの川上哲治や、選手兼任監督の中島治康、“猛牛”千葉茂とやはりスターが揃っていた。「遠い昔のことだから」と言われたらそれまでだが、この記述の連載を行っていた2000年と言うと、石原慎太郎は東京都知事に当選して間もない時期で、68歳。耄碌する年齢とも思えない。些細なことのようだが、どうにもそれが引っ掛かる。

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