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ストイコビッチの「NATO空爆抗議」を思い出す… “日本でプロ選手”になったミャンマー難民GKがブチ当たる苦悩とは 

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木村元彦

木村元彦Yukihiko Kimura

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photograph byKentaro Takahashi

posted2021/12/19 17:00

ストイコビッチの「NATO空爆抗議」を思い出す… “日本でプロ選手”になったミャンマー難民GKがブチ当たる苦悩とは<Number Web> photograph by Kentaro Takahashi

YS横浜入団会見の際のピエリアンアウン。フットサルプレーヤーとして、葛藤を抱えながらのプレーが続いている

 有給契約の選手とは言え、まだ日本での実績は皆無であり、フットサル一本でのペイでは、生活は厳しく、昼間に工場のアルバイトに就くことになった。早朝6時からの練習に参加するために4時には起床し、トレーニング後は仕事先に向かう。帰宅するとあっと言う間に翌朝に向けての就寝時間になる。祖国では、ユース世代から国家代表として招集されてきたためにサッカー以外の仕事をしたことが無かった。

悪化の一途をたどる祖国の状況

 言葉の通じない国での初めての肉体労働体験に加え、事態が日増しに悪化していく祖国の状況が心身を蝕んでいた。9月7日には、ミャンマーの民主派であるNUG(挙国一致政府)が、市民に国軍に対する武装蜂起を呼びかけ、戦闘状態に入った。通称D-dayの宣言である。

 この頃から、ピエリアンのFacebookの投稿は日本国内の近況報告が無くなり、ほとんどが抵抗する市民の活動や、ミャンマー国軍の非人道的な軍事活動を告発する報道のシェアになっていった。

「自分だけが平和な日本にいていいのかと考えてしまうことがあるよ」と練習場からの帰りにぽつりとつぶやいたことがある。

 軍事独裁に毅然と抗議を示す三本指を、W杯予選の国際映像に向けて示したことで、世界各地に暮らすミャンマー人たちに勇気を与えたが、その素顔はあまりにもシャイで、英雄視されることを嫌う。常々「自分は祖国で闘っている人たちに比べれば何もやっていない」との発言を口癖のように繰り返している。

 日本に残留したことでかえって望郷の念は強くなった。収入がある度に災害被害者団体などに寄付を繰り返す。横浜での練習に参加をし始めた頃は、「サッカーやフットサルをしているときだけが国の悲劇を忘れることができる」と語っていたが、泥沼のような内戦に突入している祖国からのニュースを見るにつけて、最近は練習時にも不吉な事が脳裏をよぎっているのではないか、とふと思った。

想起されるのはNATO空爆時のピクシー

「そう言えば……」

 早朝の練習を見ながら、かつて似た状況にあったサッカー選手を想起した。1999年にNATO軍がユーゴスラビア(当時)を空爆したときのピクシー、ドラガン・ストイコビッチである。

 米軍が主導するユーゴに対する空爆は当初、人道的軍事介入の名の下に軍事施設のみを撃つとしていたが、すでに開始直後の3月26日には、「軍服を作っている」というとんでもない理由で裁縫工場までが攻撃された。以降、民間施設や病院、学校などが標的にされ、やがてはミロシェビッチ大統領(当時)の私邸、中国大使館までがピンポイントで爆撃されていった。

【次ページ】 「プレー中もずっと故郷のことを考えていたよ」

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