甲子園の風BACK NUMBER
宝物は同学年の“田中将大と斎藤佑樹のサインボール”…「打倒マー君」や「帝京との死闘」の智弁和歌山主将は今、何を?
posted2021/08/27 11:03
text by
清水岳志Takeshi Shimizu
photograph by
Katsuhito Furumiya
2006年。駒大苫小牧の3連覇がかかった年だ。全国の高校球児は“駒苫の田中”を倒すことが目標だった。
その世代の智弁和歌山の主将だった古宮克人の出身は大阪の南端、泉南。中学の野球部の先生は箕島で東尾修と同期、センターを守っていた人で、日体大所属時には高嶋仁監督が先輩だった。いろいろな縁が幾重にもなって、智弁和歌山に進学することになる。
中学3年の2学期の最後、県内の人数枠の関係で和歌山に引っ越したら智弁和歌山に入学が許されるという。古宮に選択肢はなかった。住所を変えて、見かけ紀州人になって和歌山の中学に通った。4月には晴れて智弁和歌山の野球部に入部する。
古宮は入学してすぐ遠征に帯同され、夏は背番号7をもらって外野のレギュラーを獲得した。初めての甲子園は2年の夏。青森山田の柳田将利投手(元千葉ロッテ)に初戦負けだった。その年、優勝したのは駒大苫小牧。2年生エースの田中将大がマウンドにいた。
「僕らは田中将大、打倒田中で励んだ世代です。田中を打ち崩さへんと優勝はない。目標は明確やった」
実は2年夏に駒大苫小牧と京都外大西の決勝戦を見に行っているという。
高嶋仁監督が頂点を取れると見込んだ学年は甲子園の決勝を見に行かせるのが慣わしだった。
高嶋監督から「お前らは来年、ここにいるんやで」と
青森山田に負けた晩、高嶋監督と3年生の意見が一致して、古宮が主将に決まる。翌朝、和歌山に帰って、甲子園の後片付けをして新主将が告げられ、新チームがスタートした。
夏の練習が数日すぎたある日、学校に行くとバスが止まっていた。
「『甲子園行くで』と高嶋先生に連れて行かれて決勝戦を見ました。田中が最後は150kmのストレートで三振に斬ってとって優勝です。あいつはすげえなと。バスの中で、高嶋先生が『お前らは来年、ここにいるんやで』と」
秋の近畿大会は決勝で履正社に敗れた。が、高嶋監督は明治神宮大会を見に行って、全国のレベルを確認してくるのが常だった。今年のレベルはこれだけ高いから、一冬、頑張ろうか。そんな雰囲気が秋にはいつも漂う。
その秋も駒苫の田中がナンバーワンピッチャーの座は揺るぎない。