甲子園の風BACK NUMBER
宝物は同学年の“田中将大と斎藤佑樹のサインボール”…「打倒マー君」や「帝京との死闘」の智弁和歌山主将は今、何を?
text by
清水岳志Takeshi Shimizu
photograph byKatsuhito Furumiya
posted2021/08/27 11:03
卒業後も智弁和歌山に携わった古宮克人。打倒・田中将大に燃えた当時のキャプテンは今、何をしているのだろうか
「監督は何も言わなかったですね」
ボールが消える、という表現がある。古宮に言わせると、最後にボールが見えなくなるのだという。それまでは岐阜城北の尾藤が自分にとって、消えたスライダーを投げてきた唯一の投手だったが、それを上回る印象だった。
「田中に対して右バッターはスライダーが消えるという表現になるかもしれない。でも、自分は左打席で入ってくるスライダー。それまでの打席でスライダーは見えてました。これは対応できると。その時も最後まで見て、カットしに行ったんですが、それよりも曲がった。カウントを取るスライダーと三振を取るスライダーは違いました。あんなスライダーは初めて見ました」
向こうが上だったと、納得せざるをえない結果。
「駒大苫小牧に負けて、僕が覚えてないだけかもしれないですが、監督は何も言わなかったですね。田中と最後に戦えて、やっと終わった安堵感。全国優勝できひんかったけど、やれることはやった。満足感、達成感でした」
涙は流したが、苦しい時も洗い流して、悔いの涙ではなかった。
チームメートからもらった田中と斎藤のサインボール
田中とは後日談がある。
夏の甲子園が終わって、代表チームによるアメリカとの親善試合があった。智弁和歌山からは橋本と廣井が参加した。古宮は橋本にまっさらなボールを託した。そこに田中と斎藤佑樹(早実)のサインをもらってきてくれと。
「楷書で2人の名前が入ってます。そんなボール、世界にひとつだけじゃないですか」
大事に飾ってあるそうだ。
大学は推薦で立命大に進んだが思うような結果が残せていない。4年ではキャプテンに就任したがレギュラーを取れなかった。現役を続けることは諦め、教える立場を目指す。高校を卒業するときに理事長に教師として戻ってこいと言われていた。大学3年から教職をとって理事長に電話してお世話になりたいと伝えた。
2011年に母校に戻って副部長、部長を歴任。高嶋監督、興国に移って監督になった喜多隆志コーチ、中谷仁・現監督らと関わった。現場に9年、甲子園には春夏9回出てベンチにも入った。ただ、優勝することはできなかった。
2016年、県内で10点を取られて大敗することがあった。ちょっとした低迷期。甲子園で勝つために、もっと強くなるために、自分が勉強したトレーニング論を高嶋らにぶつけたこともある。そして中谷に諌められたこともある。
2018年センバツは強化の成果が出て大阪桐蔭に敗れたが準優勝。だが、夏は近江に初戦敗退。このあと、高嶋の監督勇退を節目に、自身の将来も見据えて公職退任を決意した。
部長を翌年3月で退く。そして、2020年3月で学校も退職した。