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アテネ2004体操男子団体メンバーに滑り込みで選出→金メダル獲得で日本体操界の未来を託された水鳥寿思の人生「わらしべ長者じゃないですが…」
posted2024/07/10 10:00
text by
矢内由美子Yumiko Yanai
photograph by
Takuya Sugiyama / AFLO
世界の頂点に何度も輝き、「お家芸」として知られる男子の体操競技。しかし、アテネ2004を迎える前の体操界は、栄光の歴史が過去のものとなってから長い時間が過ぎ、危機が叫ばれる状況にあった。
体操ニッポンは、ローマ1960から東京1964、メキシコシティー1968、ミュンヘン1972、モントリオール1976まで実に5大会連続で団体金メダルに輝いていたが、アテネ2004はそこから既に28年という時が過ぎていたのだ。
しぼみかけていた体操ニッポンが高らかに復活の狼煙をあげたのがアテネ2004だった。団体金メダリスト6人のうちの1人である水鳥寿思(現・日本体操協会男子体操強化本部長)は、「あそこで金メダルを獲らなければ、今こうして取材されることもなかったかもしれません」と笑みを浮かべながら、当時の思い出を掘り起こしていった。
アテネ2004の代表選考会を迎える1年5カ月前、水鳥は最大の危機に直面した。2002年11月に左膝の前十字靱帯を断裂したのだ。それでも、周囲の尽力と自身の強い意志で見事に復活。2004年4月、5月に行なわれたアテネ2004の代表選考会では計4日間の全24演技すべてをノーミスでやり切り、個人総合3位という堂々たる成績で代表入りを果たした。
ところが、代表選考会ですべてノーミスだったことが逆にネガティブな考えにつながった。
「僕が出した点数は、代表入りするために必要な点数から逆算して練習を重ね、その通りにやれたからこその結果。裏を返せばそれ以上の余力はありませんでした」
アテネ2004に出場することへの思いの強さもマイナスに作用した。
「今でこそ選手たちに『金メダルの先をしっかり見据えて考えなければいけない』という話をしているのですが、僕自身はアテネ2004に出ることがゴールだったので達成感が強く、しばらくは気持ちが上がらず苦労しました」
そんな時だ。キャプテンの米田功から「俺たちは代表になったけど、本番でメダルを獲れなかったら代表になれないことにも及ばないぞ」と釘を刺された。水鳥は「見透かされているのだろうか」と思ってドキッとしたという。
「みんなが期待しているのは僕がアテネ2004に行くかどうかではなく、このチームが勝てるかどうかだ。選考会でノーミスだったから入れたということは、実力的には別の選手が入ってもおかしくなかった。『水鳥、使えるのかよ?』と思われているのではないか。そんな被害妄想がありました」
得意の鉄棒で大技の練習をやめた理由
体操の男子団体は6種目をそれぞれ3人が行ない、その合計点で順位が決まる。団体メンバーの得意種目を並べると、明らかにつり輪が手薄だった。
そこで初めて水鳥はつり輪の強化に取り組む決意を固めた。背景にあったのは「自分の存在意義を示したい」という思いだ。
水鳥自身がもともと得意としていたのは鉄棒だ。イメージしていたのはアテネ2004で離れ技の「カッシーナ」を成功させて優勝すること。しかし、日本にはエースの冨田洋之、前年の世界選手権で鉄棒とあん馬の金メダルを獲得していた鹿島丈博ら鉄棒が得意な選手が多くいた。
「最初は自分がやりたいことを大舞台でやるというイメージしかなかったのですが、いや、そうじゃないと気づきました。チームに貢献することで自分の存在意義を出せると思ったのです」
決意した日を境にカッシーナの練習をやめた。そして迎えたアテネ2004。下馬評では中国の評判が良かったが、現地で実際にライバル勢を見ると、予想していた様子と違っていた。中国からオーラを感じなかったのだ。
「これだったら自分たちも張り合えるんじゃないか」
この肌感覚は正解だった。実際に試合が始まると、日本は伸び伸びとした演技で団体予選1位。水鳥自身は夢に見てきた大舞台で演技をしながら、それまでにない幸せを感じていた。
ところが中1日を置いて迎えた団体決勝は、予選とは打って変わり、激しいプレッシャーに全身が包まれるのを感じた。