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大林素子54歳が明かす“バレーは生きるか死ぬか”「ボールはね、落としたら死ぬ、自分の寿命みたいな存在でした」 

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河崎環

河崎環Tamaki Kawasaki

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photograph byShigeki Yamamoto

posted2021/07/14 11:03

大林素子54歳が明かす“バレーは生きるか死ぬか”「ボールはね、落としたら死ぬ、自分の寿命みたいな存在でした」<Number Web> photograph by Shigeki Yamamoto

現役引退から25年が経った大林素子さん(54)

「五輪前の今だからこそ、あの頃を振り返ってお話する機会も多いんです。でも、ひりつきとか、覚悟とか、悩みとか葛藤とか、そういう言葉を使う意味がわからない。ほんとに、ただ勝つために生きてるだけでしたから。24時間、バレーボールで勝つために、例えばいま何を着るか、どう座るか、どう暮らすかと判断するだけ。そうやって十何年も現役生活を続けていました。

 現役を離れてから、人に伝える時に形容詞や飾る言葉をつけた方がわかりやすいのでそうする、というだけです。日本代表で、オリンピックで勝つというのは、覚悟だとか葛藤だとかじゃなくて、“当たり前のこと”なんです」

 そして付け加えた。「そうしなくては勝てない。しかも、そうしても勝てなかった。私は日本女子バレーの五輪敗北の戦犯ですから。私は代表として日本女子バレーを背負い、そして戦犯として負けを背負った。だからあれだけやってもやっても勝てない、獲れないメダルってどれだけなんだろうというのは、ずっと残ったままです」。

高度成長期とともにあった日本の女子バレーボール

 1964年の東京五輪で、東京オリンピック組織委員会は日本のメダル獲得の可能性を見込める新競技として、男子柔道とバレーボールを採用した。女子バレーボールはオリンピック競技として採用された最初の女子団体競技であり、日本女子チームは東京五輪で優勝すると「東洋の魔女」との異名を得て、その後メキシコシティー夏季五輪で銀、ミュンヘンで銀、モントリオールで金、ロサンゼルスで銅と、メダルを必ずもたらした強豪だった(モスクワは日本が参加辞退)。

『アタックNo.1』『サインはV』などの漫画・アニメ人気で競技人口は急激に膨れ上がり、草の根のいわゆる“ママさんバレー”も盛んで、日本の高度成長期は女子バレーボールブームとともにあったと言っても過言ではない。

 だが、五輪競技としての認知度が上がると諸外国も次々と参入、競争は激化する。金銀が当たり前だった日本は、1984年ロサンゼルスの銅メダルを最後にメダルから遠ざかる。大林が代表として出場した1988年ソウル、1992年バルセロナ、1996年アトランタ五輪はまさに男女日本バレーが苦しいトンネルへと潜っていった時期で、日本女子代表チームが手にすることのできたメダルはゼロ。2000年代に入ってからは男女それぞれ五輪出場さえ叶わなくなることもあり、かつて「日本のお家芸」とも呼ばれたバレーボールの黄金期は終焉を迎えたと捉えられた。

ボールは「落としたら死ぬ、寿命みたいな存在でした」

「メダルがない。その事実に対して、気持ちの折り合いはつけるものではない。もうメダルを取れなかったら全ておしまい、負け、全否定。私ははじめてのソウル五輪に、(中田)久美さんと(江上)由美さん、廣(紀江)さんらロスの銅メダルメンバーと臨みましたけど、やっぱり先輩方の話を聞くと、もう銅でもだめなんです。『こんなメダルいらない』って、首に掛けた瞬間取って投げた方々なので。バレー界は2位じゃだめ、1位じゃなきゃだめ」

【次ページ】 ボールは“自分の命”だった

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