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祝喜寿・アントニオ猪木の伝説検証!(1)
イタリアで一番有名な日本人だった話。
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2020/02/26 19:00
現役プロレスラーを引退し、国会議員を引退し、現在は新たな事業開発にかけているアントニオ猪木。
パスポート無しに出国してしまう猪木。
昔、ドイツのフランクフルトの空港で飛行機に搭乗しようとした時の話。
空港に入ったところで、ちょっと買い物に出かけてくると言ったまま、猪木が戻って来ない。
まだイミグレーションの手前だったので、猪木のチケットもパスポートも私が持っていたから、「猪木さん、どこに行ってしまったんだ?」とひとりでキョロキョロ見まわしていたら、猪木が税関の向こう側で手を振っている!
「空港職員が、オレの事を知っているっていうから、話していたらそのまま通してくれたんだよ(笑)」
その係官はアリとの試合をよく覚えていて、だいぶ話が弾んだようだった。
猪木の活躍をつぶさに知っていたイタリア人。
猪木はイタリアでも有名だ。
実は、多くの日本人が想像するよりかなり有名である。あのサッカーのアレサンドロ・デル・ピエロはプロレスが大好きで、猪木や藤波辰爾、タイガーマスクの大ファンだった。
「アントニオ」という名前が印象的なのか、筆者のイタリア人の友人の40代のカメラマンは、私が猪木の写真をずっと撮っていたというと、「あの~~アントーニオ・イノッキか!」と叫び声をあげるほど驚いていた。
なぜ、そんなにアントニオ猪木が有名かと言うと、80年代半ばから90年代初めまでに2、3年遅れの『ワールドプロレスリング』が、毎週土曜日の21時から「Italia1」というチャンネルで放送されていたからだ。ゴールデンタイムの放送だったので、イタリア中の多くの人がこれを見ていた。
当時、イタリアでのサッカーの試合は、まだ日曜日の午後、太陽の下で行われていた。土曜日の20時半キックオフでテレビマッチが組まれるようになったのは、そのずいぶん後のことだったのだ。
だから当時のイタリア人の人たちの多くは、「猪木vs.アンドレ・ザ・ジャイアント」「猪木vs.ハルク・ホーガン」など人気絶頂だった時代の新日本プロレスを、夜のゴールデンタイムの娯楽としてテレビ観戦していたのだ。
当時イタリア北部のサッカークラブ「ウディネーゼ」でプレーしていたジーコも、子どもと一緒に猪木のプロレスを見ていた1人である。
ブラジル政府のスポーツ長官時代にリオ・デ・ジャネイロで猪木と会ったジーコは、「息子がタイガーマスクの覆面を欲しがっているので……」とマスクをねだってきた。そのため猪木は帰国してすぐに、わざわざ虎のマスクを手に入れて、ジーコに送ってあげたのである。