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祝喜寿・アントニオ猪木の伝説検証!(1)
イタリアで一番有名な日本人だった話。
posted2020/02/26 19:00
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
NumberWebでは、喜寿を迎えてますます盛んなこのレジェンド・ファイターの数多くのエピソードを、写真家・原悦生の文章で振り返ることで祝辞に代えるべく、いくつかコラムを編んでみました。果たして“あの伝説”の真相は何だったのか……。まず第1回目は「伝説の出会いと別れ」です。
アントニオ猪木は2月20日、喜寿を迎えた。
「燃える闘魂」が、77歳になったのだ。
「アントニオ猪木の喜寿を祝う会」には、都内の有名ホテルに多くのゆかりある人たちが集うこととなった。猪木は出席者で「満員御礼」となった広い会場を前にして、紫のマフラーを揺らしながら、77歳の年齢をまったく感じさせないギラギラとした眼光を放っていた。
新たに設立された「日本プロレス殿堂会」も同日に発表があった。猪木は、藤波辰爾、長州力、天龍源一郎らとニコやかに記念写真に収まった――。
海の中に消えていった祖父のお棺。
アントニオ猪木こと猪木寛至(かんじ)は、神奈川県横浜の鶴見で11人兄弟の6男として生まれた。5歳の時に父が他界したことで、猪木家は貧しい生活を強いられていたという。苦しい暮らしの中でも、母方の祖父は特別に猪木をかわいがってくれていたそうだ。
13歳の時、移民という形で家族と共に船でブラジルに渡ることになった。だが、乗船したサントス丸の長い航海の途中で、祖父が亡くなってしまう。パナマ運河を過ぎたベネズエラ沖、カリブの海に水葬された祖父の記憶――船の甲板から猪木少年は愛する祖父の棺が白い泡を立てて海に消えていく光景をじっと見つめていたという。
その祖父が亡くなった時の年齢が、77歳だった。
ついに、猪木もその年になったのだ。
父親が亡くなった時は幼すぎて実感がなかった猪木だが、この祖父の死に際しては、強烈な死生観を心に刻まれることになったそうだ。猪木家で77歳より長く生きた人はいないということだ。
猪木はその祖父から、常々「夢を持て」と言われていた。
「乞食になるなら世界一の乞食になれ!」
とまで言われたという。
長い航海を経てようやくたどり着いた約束の地・ブラジルは、子供心に夢見ていた理想郷とはとんでもなくギャップがあった。移民先のコーヒー農園では、毎日の過酷な労働で手が信じられないほどザラザラに荒れたそうだ。そんな暮らしの中でも、猪木は兄弟たちと汗を流して、とにかく一生懸命に夢を持って働いていたという。野良作業の合間に、ジャングルの木陰で飲んだ冷たいコーヒーの味が忘れられないそうだ。