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祝喜寿・アントニオ猪木の伝説検証!(1)
イタリアで一番有名な日本人だった話。
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2020/02/26 19:00
現役プロレスラーを引退し、国会議員を引退し、現在は新たな事業開発にかけているアントニオ猪木。
あまりにも強烈な、猪木の人生の出会いと別れ。
出会いと別れ――人には誰でもあることだが、猪木の場合はその1つひとつが強烈なものとなる。
試合をするためにブラジルに来ていた力道山が、たまたま陸上競技(砲丸投げと円盤投げでブラジル全国大会優勝)での猪木少年の大活躍を報じた新聞記事に目を留めた。力道山は、すぐさまこの少年を探し出し、日本に呼び寄せることにした。こうして、猪木寛至が「アントニオ猪木」になる道は開けたのだった。
猪木は1960年9月に日本プロレスのリングでデビューする。大木金太郎が対戦相手だった。
実はこの日、ジャイアント馬場もデビューしている。なので、厳密には馬場とは同期のライバルということになるのだが、年上だからなのか馬場が先輩のような感覚で……その3年後の12月に力道山が暴漢に刺殺されてしまったので、この同日デビューにおける力道山の本当の狙いを知ることはできなくなってしまった。もちろん、猪木にとってはこの別れも格別に辛いものだったという。
4回の結婚と、4回の別れ。
猪木はプロデビュー後、アメリカの修行先で出会った米国の女性と初めて結婚し、一女をもうけたが、その娘が8歳の時に病を得て悲しい別れを経験する。その後、妻である女性も亡くなってしまった。
結婚という話で言うならば――盛大な結婚式を挙げ、1972年の新日本プロレス旗揚げも支えてくれた倍賞美津子さんとの間には1女をもうけたが、離婚に至ってしまった。
その後、22歳年下の女性と3度目となる結婚をして長男もいるのだが、再び離婚。
4人目の妻となった16歳年下の田鶴子さんとも昨年、死別してしまっている。
「2011年に兄が亡くなったころから、特に別れを意識するようになったよ」と猪木はいう。
「なんか風が吹いてきて、砂漠の表面がその模様を変えるように、オレの足跡がフーッて消えていく。そんなふうに(自分の人生を)消したいな、と思うことがあるよ」
猪木は中東の砂漠の風景を思い浮かべるかのようにして、しみじみと語っていた。