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パラリンピックを生んだ日本人。
オムロン、ソニー、ホンダとの絆。 

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鈴木款

鈴木款Makoto Suzuki

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photograph byTaiyo no ie

posted2019/11/24 08:05

パラリンピックを生んだ日本人。オムロン、ソニー、ホンダとの絆。<Number Web> photograph by Taiyo no ie

1975年に大分で実現した「極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会」。世界的にエポックメイキングな大会だった。

障がい者の国際スポーツ大会をもう一度。

 太陽の家の設立から10年がたち、経営が軌道に乗ると、中村には再び「障がい者の国際スポーツ大会を開きたい」という想いがよみがえってきた。

 東京パラリンピックを成功させたものの、当時の障がい者スポーツ大会にはアジアや太平洋地域の国々からの参加は無かった。

 また、障がい者スポーツの国際大会では、ストーク・マンデビル大会の競技規則をもとに行われていたので、脊髄損傷以外の障がい者は参加できなかったのだ。

 中村は思った。

「従来のパラリンピックは先進国中心のお金のある人だけが参加できるような仕組みになっている。しかも、車いすだけのスポーツという傾向が強かった。この大会は、発展途上国からも、そして車いすに乗らない人や目の不自由な人、すべての障がい者が競技に参加できるものにしたい」

 1975年6月、中村の想いは地元大分で「極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会」として実現する(英語の頭文字などをとってFESPIC=フェスピックと呼ばれた)。

 大会参加国は日本を含むアジア・太平洋地域の18カ国、参加選手は974名。車いすだけで無く、あらゆる障がいを抱えた選手が参加した。

 開催費用はソニーの井深氏らが中心となって寄付金を募り、会場には皇太子ご夫妻(現・上皇、上皇后)も来賓として出席した。

「スポーツは大事だが仕事はもっと大事だ」

 そしてフェスピックの成功に習って、これまで車いすだけのスポーツ大会だったパラリンピックは、様々な障がいをもつアスリートに門戸を開くことになる。

 この第1回フェスピックで、日本は最多の金メダルを取り、アジア・太平洋地域の中で日本が障がい者スポーツの先進国であることを国内外に示した。

 しかし大会の閉会式で中村は、こんなスピーチをした。

「スポーツは大事だが仕事はもっと大事だ。みんなで協力して、社会復帰の道を目指そう!」

 中村が拳を振り上げこう叫ぶと、会場にはどよめきが起こった。なぜなら、アジアや太平洋地域の障がい者にとって、働いて自立することなどまだ夢のような話だったからだ。

 参加選手たちには「帰国したら太陽の家を見習って頑張りたい」と言う者がいる一方で、「現実のような気がしない。国に帰れば我々は誰からも必要とされない存在に戻る」と悲しげに語る者もいた。

その後フェスピックはアジア・太平洋地域の障がい者スポーツ大会として、2006年まで9回開催された。そして2010年から始まったアジアパラ競技大会に引き継がれている。

【次ページ】 大分国際車いすマラソンを設立。

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