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パラリンピックを生んだ日本人。
オムロン、ソニー、ホンダとの絆。 

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鈴木款

鈴木款Makoto Suzuki

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photograph byTaiyo no ie

posted2019/11/24 08:05

パラリンピックを生んだ日本人。オムロン、ソニー、ホンダとの絆。<Number Web> photograph by Taiyo no ie

1975年に大分で実現した「極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会」。世界的にエポックメイキングな大会だった。

オムロンを訪ね、熱弁を奮った。

 生産工場といっても、当初は竹細工や木工製品を細々と作るだけで、太陽の家の経営は苦しかった。

 そこで中村は時代の最先端を行っていた立石電機(現オムロン)を訪問し、創業者・立石一真氏に「必ず満足される仕事をして見せます」と直談判した。

 初体面にもかかわらず滔々とまくし立てる中村を、立石氏は当初「なんだ、この人は」と訝しく思った。

 しかし中村の情熱的な言葉に心を打たれた立石氏は、太陽の家と協業することを約束し、1つの提案をした。

「私は彼らを障がい者として扱いません。うちと太陽の家とで共同出資して会社を作り、経営にも加わってもらう。苦しいときには苦しみを分かち合い、嬉しいときには一緒に喜ぼうじゃないですか」

 こうして作られた「オムロン太陽電機株式会社」は、従業員のほとんどが障がい者の株式会社という、当時の日本で前例の無いものだった。

ソニーの井深氏、ホンダの本田氏も賛同。

 ソニーの創業者、井深大氏も中村の熱意にほだされ、協業を決めた1人だ。

 中村によると、初めて会った時井深氏は早く帰れというそぶりで、ソニーのラジオを中村に渡したという。しかし中村は、これに激高してラジオを投げ返した。「昭和の大経営者」と言われる井深氏を相手に、恐れを知らぬ振る舞いである。

 しかしその後中村と井深氏は盟友となり、中村の葬儀の際には井深氏は葬儀委員長を務めた。

 弔辞の中で井深氏は、「障がい者というものが、何かしらの庇護を受けるものだという、今までの考え方をまるっきり変えられたのが、中村先生の偉大なところではないかと思います」と述べた。

 また、ホンダの本田宗一郎氏は、井深氏に連れられて太陽の家に視察に来た際、障がい者が働く姿をみて号泣。「ホンダもこういう仕事をしなきゃだめなんだ」と事業提携を即決した。

 当時はまだ「バリアフリー」という言葉も一般的には知られていなかった。もちろん、「インクルーシブ社会」も「ダイバーシティ」も無い。

 しかし中村や昭和の大経営者たちの視線の先には、「インクルーシブ」や「ダイバーシティ」が実現された社会の姿が既にあったのだろう。

【次ページ】 障がい者の国際スポーツ大会をもう一度。

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