草茂みベースボールの道白しBACK NUMBER
商業高校が席巻していた「江川世代」。
甲子園出場校から“時代”を紐解く。
posted2019/08/29 20:00
text by
小西斗真Toma Konishi
photograph by
Katsuro Okazawa/AFLO
井端弘和氏の開幕戦始球式で始まった今夏の甲子園は、達川光男氏の決勝戦始球式で幕を閉じた。達川氏は広島商出身。1973年の第55回大会で全国制覇を達成している。
「(立っている)履正社の打者には絶対に当てられんと思って投げました。最高の思い出になりましたけど、本来なら、ここで投げているのは佃だったんです」
外角高めへの1球を振り返りつつ、46年前にバッテリーを組んだエースに思いをはせた。落差の大きなドロップが特徴的な左腕だった佃正樹氏は、同年春の選抜大会では準優勝。夏と合わせて甲子園で10勝を挙げた名投手である。それなのに達川氏が「本来なら佃が……」と言わずにいられなかったのは、残念ながら2007年に病没したからだ。
高校、プロと因縁深かった達川と江川。
今ならば間違いなく「江川世代」と呼ばれたことだろう。昭和の怪物・江川卓(作新学院)の噂は、選抜が始まる前から全国を駆け巡り、強豪は対策を練った。
とはいえ、現在とは違って事前に映像など入手できない。打撃練習での距離を縮めるなど、懸命な速球対策も実らず、準々決勝までの3試合、25イニングで何と49奪三振。何とか当てたところで、木製バットでは外野まで飛ばすのもままならなかった。そんな規格外の怪物を、準決勝で倒したのが佃と達川のバッテリーを擁する広島商だった。
前年の秋から続いていた江川の連続無失点を139イニングで止めたのが、佃のポテンヒットだった。さらに内野安打と四球で得た一、二塁から重盗で揺さぶり、捕手の悪送球を誘った。江川から打ったのはこの2安打だけ。2対1で振り切り、決勝に進出した。佃は後に法政大で江川とチームメートとなり、達川はプロ野球で対戦する。
何かと縁があったということだ。