“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
好調札幌のキーマン、FW鈴木武蔵。
旧友と立った代表ピッチでも生き生き。
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byTakuya Sugiyama
posted2019/03/26 07:00
3月22日のコロンビア戦では1トップとして先発出場し、決定機にも絡んだ鈴木武蔵。日本代表のFW争いに名乗りを上げる。
「高校1年間はひたすらトラップとキック」
そもそも鈴木こそ、吉武監督が「発掘」した存在だった。
地元のFCおおたジュニアユースから桐生第一に進んだ彼は、すでに知る人ぞ知る存在。ジャマイカ人の父と日本人の母を持ち、50mを5秒9というずば抜けたスプリント力と跳躍力は高校生離れしているものだった。
しかし、当時総監督を勤めていた小林勉は、その特徴がチームの中でなかなかフィットしなかったと振り返る。
「高校1年の間はひたすらトラップとキックしかさせなかった。いくら身体能力がずば抜けていても、それを生かすための“止めて、蹴る”の基礎技術が決定的に足りなかった。まずはそこを身につけてから、素材を活かすことを考えた」
土台作りに注力したこともあり、当初は公式戦にすら出場することはなかったという。だが、高校側は、他の選手では持ち合わせない天性の素材を「一度呼んで、試してみてほしい」と吉武監督に売り込んでいたという。吉武監督もそれを快諾したことで、公式戦未出場に高校2年生が、いきなりU-16日本代表に異例の大抜擢をされたのだった。
「あの20番(鈴木)は一体何者だ?」
豊田国際ユースで代表デビューを果たすと、磨いていた基礎技術が成果を見せ始め、そこから世代別の代表チームに定着。前述したU-17W杯の活躍に繋がった。
筆者がメキシコに取材に行った際、途中出場で流れを変えたジャマイカ戦の活躍を他の国の記者たちから「あの20番(鈴木)は一体何者だ? なぜ20番の彼はレギュラーじゃないのか?」と質問攻めにあったほど。
突如現れた「94ジャパン」の新星は'12年にアルビレックス新潟に加入し、プロのキャリアを歩むことになった。
だが、1年目ではリーグ戦9試合に出場に留まり、ストライカーとしての結果を残せず、期限付きでの移籍を繰り返すことになる。