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久米一正がサッカー界に遺したもの。
「情熱とビジネス感覚の両立を」
posted2018/11/30 17:00
text by
西川結城Yuki Nishikawa
photograph by
AFLO
何から記していいのか、正直わからない。書き手として、こんな定まりもない状態で筆を執るのは失格でもある。
ただ、彼がサッカー界で残してきた功績や存在感、そして個人的に彼に触れては感じてきた多くの感情や思いを考えると、やはり留まっていることはできなかった。
11月23日。久米一正氏が大腸がんのため亡くなった。63歳だった。
最後の役職は、清水エスパルスの取締役副社長兼GM。2003年から4年間強化部長を務めた古巣に、今年1月に返り咲いたばかりだった。
サッカーの世界では、知らない人間は“モグリ”と言われるような有名人。今回の訃報には、これまで深く関わり合ってきた吉田麻也や岡崎慎司ら、数多くのサッカー選手たちも哀悼の意を表している。
とはいえ世間的には知る人ぞ知る人間ではあるため、ここではこれまでの経歴を紹介しなければならない。
静岡県浜松市出身。中央大から1978年に日立製作所に入り、サッカー部でプレーした。ちなみに同部での同級生でありチームメートが、西野朗前日本代表監督。彼との邂逅は、久米氏の人生に大きな影響を及ぼすことになる。
左利きのアタッカーとして活躍し、1985年に引退。以降は日立で営業マンを務め、日々コンピューター機器などを売り歩く生活を過ごした。数年後、再び日立サッカー部にマネージャーとして戻り、チームの再興に貢献する。
そして1991年日本サッカー協会に出向し、川淵三郎氏などとともに1993年Jリーグ開幕に向けて精力的に働いた。開幕時は初代Jリーグ事務局長でもあった。
'90年代中盤には、柏レイソル(日立サッカー部が前身)の強化担当・GMに就任。1996年アトランタ五輪でブラジルを破るマイアミの奇跡で西野監督が一躍有名人になった頃だった。
柏で体験した栄光と蹉跌。
しかし、大会後の日本サッカー協会の西野監督に対する評価が思いのほか低かったことで、久米氏はかつての同僚に「こっちへ戻ってきたらどうだ」と誘う。そして西野監督は柏のコーチに就き、翌年には監督に就任。ここから1999年のナビスコカップ制覇や2000年のリーグ優勝争いなど、久米・西野のタッグはJリーグのメインステージへと上り詰めていった。
しかし翌2001年、チームの成績は急降下。西野監督は解任されることになった。それを告げたのは、長く同じ釜の飯を食べてきた久米氏だった。奇しくも、今年久米氏と会食した際に、当時の裏話を明かしてくれた。
「西野はあのシーズン、日立の役員の前で優勝宣言をした。優勝の二文字は、重たい。それを言ったことで、クラブのフロントの期待とともにその言葉に対する責任を重ねたわけで。
しかし、結局1stステージの成績が振るわなかった。開幕戦から躓いたと記憶しているけど、あの時は岡田(武史)が率いていたコンサドーレ札幌と、高知で大雨の中の試合だった。カウンター一発で失点して敗戦。そこからガタガタと転落してしまった。
そうなると、だんだんフロントや役員も『優勝』という言葉をもとにプレッシャーをかけてくる。そんなに悪い成績ではなかった。でも優勝に比べると劣る。結局上からのお達しで、西野は解任になった。西野は古くから日立にいた人間なので、社内でも賛否両論あった。ただ自分は当時、立場上では彼を切る側にいたからね……」