サッカー日本代表「キャップ1」の男たちBACK NUMBER
代表より鹿島を優先した増田忠俊。
「でも、1キャップに感謝しようと」
text by
吉崎エイジーニョ“Eijinho”Yoshizaki
photograph by“Eijinho”Yoshizaki
posted2018/03/23 07:00
大事にしている代表ユニフォームと増田忠俊。彼の教え子から日本代表選手が生まれるのを楽しみにしたい。
「ジーコと共に戦える」という喜び。
若かりし頃の増田は、個人技に長けた、攻撃的MFだった。
「わざと2~3人に囲まれて、それをヒュッと抜いたりとかしてね。お客さんがわーっと沸くようなプレーをわざとしたりするような選手でした」
静岡学園出身。3年間、個人技術を徹底的に叩き込まれたが、無名のまま卒業した。全国大会出場歴なし、県選抜歴もなし。'92年の高校卒業時は、Jリーグが誕生する直前だった。名門高のつてで、日産(横浜マリノス)、全日空(横浜フリューゲルス)、住友金属(鹿島アントラーズ)に練習参加する機会を得た。いわば「テスト生」。そのうち、住金での練習で好感触を得た。母校の井田勝通監督からも「ポジションが重複する選手が少ないチーム」を薦められた。自身にとっては「ジーコと共に戦える」点が魅力的だった。
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'93年に入団後、2年めから出場機会を増やした増田に、“日本代表”からの声がかかる。アトランタ五輪予選に挑む西野朗から招集を受けたのだ。'95年1月のことだった。
合宿地だったオーストラリアに行った。
同年代でスーパースターだった小倉隆史、前園真聖らがいた。しかし、当の本人にとってそれはまったく興味の湧かないものだった。
「オリンピックの価値、権威というものが全く分からなかったんですよ。そこに呼ばれるのなら、鹿島でレギュラーを獲りたい。そう思っていました」
五輪代表よりも鹿島が重要と思っていた。
当時の時代背景ならありうることだった。'73年生まれの静岡の高校生にとって、最高峰は「高校サッカー」。中高時代にJリーグは存在しない。日曜朝の欧州サッカーの録画中継には興味があった。一方、国内サッカーについて増田自身は'90年に三浦知良がブラジル・サントスから読売クラブに入団し、「日本リーグを少し観るようになった」程度。
日本代表はアジアでもがいていた。
アトランタ五輪は日本サッカー界にとって28年ぶりの本大会出場だった。だから、五輪でのサッカーを観たこともないし、イメージもない。
それ以上に、当時の増田にとっては自らのチーム、鹿島アントラーズが重要に思えたのだ。 レオナルドやジョルジーニョとトレーニングしたほうが、絶対に自分にプラスだと思っていた。当時の鹿島は4人の中盤のうち、両者に加え本田泰人という絶対的な存在がいた時代。1つのポジションを自身を含め7~8人で争うような状況だったが、それでも「鹿島でレギュラーになればフル代表に入れる」といわれた時代だった。そちらを目指したかった。