サッカー日本代表「キャップ1」の男たちBACK NUMBER
代表より鹿島を優先した増田忠俊。
「でも、1キャップに感謝しようと」
posted2018/03/23 07:00
text by
吉崎エイジーニョ“Eijinho”Yoshizaki
photograph by
“Eijinho”Yoshizaki
「試合でのプレーは何も覚えていないんですよ。本当に」
切れ味鋭いドリブル、スペースへの飛び出しで'97年鹿島アントラーズのシーズン2冠に貢献した増田忠俊。彼にとっての、たった一度の日本代表キャップはこのゲームで刻まれた。
'98年2月15日、オーストラリア戦@アデレード。3-0。得点者中田英寿(5分PK)、平野孝(65分)、同(70分)。
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中盤をダイアモンド型に組んだ4-4-2のトップ下として先発出場。63分に平野孝との交代でピッチを退いた。
試合出場までの出来事はよく覚えている。岡田武史監督の下、フランスワールドカップに臨むチームに呼ばれた。1月、オフを過ごしていたハワイに電話が入った後、鹿島の合宿を経由してオーストラリアに向かった。機内では「生き残りには、一度きりの勝負」と誓った。監督は中田英寿のパートナーを探している。そう感じた。北沢豪、森島寛晃といったポジションの近い選手とは「同じプレーをしていても仕方がない」とも。
カズ、中田……しかし試合の記憶はない。
現地に入ると、静岡学園つながりの三浦知良が気さくに声をかけてくれた。チームはやはり中田中心という雰囲気があり、先輩達も若きMFを立てる雰囲気があった。増田自身が年齢も近い中田の部屋に行くと、野菜嫌いを補うかのようなサプリメントがたくさん置いてあった。
試合の出場は当日告げられた。観客もまばらなスタンドだった。父が現地まで観に来てくれていた。合宿合流直後はチームの雰囲気を「Jリーグ選抜のよう」とも感じたが、パスポートチェックと国歌斉唱で確かにこれは、代表戦なんだなと自覚した。
しかし覚えているのはそこまで。理由はいくつかある。本人は「がむしゃらすぎて余裕がなかったんでしょう。悔しさもありますし」という。
時代背景もある。このゲーム、今では考えにくい「テレビ中継のない日本代表戦」だったのだ。フランスワールドカップ予選の「ジョホールバルの歓喜」を経て、翌年2月に招集されたチーム。当時19歳の中村俊輔も招集された。
そういった状況でも、試合は日本に中継されなかった。
周囲から試合のことを言われることも少ないし、試合の関連動画がインターネットで閲覧できるわけでもない。
もうひとつ、本人にとって“その他の日本代表”での記憶が鮮烈だったからだ。