サッカー日本代表「キャップ1」の男たちBACK NUMBER
代表より鹿島を優先した増田忠俊。
「でも、1キャップに感謝しようと」
text by
吉崎エイジーニョ“Eijinho”Yoshizaki
photograph by“Eijinho”Yoshizaki
posted2018/03/23 07:00
大事にしている代表ユニフォームと増田忠俊。彼の教え子から日本代表選手が生まれるのを楽しみにしたい。
超満員の横浜でのゴールと公式記録。
増田には、オーストラリア戦よりもはるかに強い記憶のあるフル代表での試合がある。'98月3月4日、横浜国際総合競技場で戦ったダイナスティカップの第2戦だ。
「横浜国際のこけら落としの大会だったんですよ。超満員でした。トップ下で先発して、40分にゴールも決めたんですよ。このゲームは結果が残せたこともあって、よく覚えています」
しかし、この試合の相手は「香港リーグ選抜」。フル代表同士の対戦ではない。公式記録では国際Aマッチにカウントされない。それゆえ、増田に刻まれた日本代表としての記録は「キャップ1」のままなのだ。
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「中国戦、韓国戦では結局出場機会がなかったんです。そうすれば2つめが刻まれたんですが。
自分としては、力が通用しなかったとは思っていないんですよ。あの時のチームの中でも、ドリブルで仕掛ける部分では他の選手にはない特長があったと思います。でもそれを決めるのは、監督なんですよ。監督のチョイスによって決まる。ダメだったというのは現実。認めなきゃいけないことですよね」
フランスワールドカップのエントリーには残れず。その後、8月のサンフレッチェ広島戦で右すねを複雑骨折。復帰まで1年以上を要した。
「体がキレキレの状態だったんですよ。ピッチを飛んでるような感覚だったんですけどね。そういう時に限って怪我をするという」
'99年に復帰後、鹿島では小笠原満男とのポジションを争う形になった。出場機会が減少するなか、'00年に東京に移籍を決意。その後、'02年ジェフユナイテッド市原(現千葉)、'03年柏レイソル、'06年大分トリニータでプレーした。この年には腰痛に苦しめられリーグ戦3試合の出場に終わると、プロのキャリアに終止符を打った。2度めの日本代表キャップを刻む機会は、ついぞ訪れなかった。
引退後は大分で子どもたちを指導。
引退後、大分トリニータのスクールコーチなどを務めた。そのまま大分に留まり、現在は自ら設立したスクール「M.S.S.」で子どもたちに「徹底的に基本技術を身につける」とのスタイルでサッカーを教える。大分トリニータのゲーム中継時などには解説も務める。
日本代表キャップ1。これは増田にとって幸せな数字か否か。本人の人生にどんな影響を与えているのか。
「今、仕事をしていくなかで『元日本代表』という肩書がつくけど……実質上、人生のなかで日本代表にいたのは3週間から1カ月です。本当に元代表と言えるのか? そう思うこともありますよ。ただ、その当時の仲間とあの時期にやれたことは誇りに思います。代表に入ることもすごく難しいことだったんで、自信を持ってもいいことだと思いますけどね」