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大仁田厚、43年間のプロレスラー終焉。
引退後もリングでレフェリー・デビュー。
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2017/11/02 17:00
最後の最後までその“邪道”なスタイルを貫き続けている大仁田。さらなる復活劇は……あるのか?
対戦が実現しなかった、ただ1人の男はA・猪木。
大仁田は、ボクシング界のレジェンドであるレオン・スピンクスや、他団体の看板選手だった天龍源一郎など大物を担ぎ出すことも非常に上手かった。近年では、元横綱の曙まで電流爆破のリングに誘い出すことに成功している。
ただ1人、戦いが実現しなかったのはアントニオ猪木だけだった。
「大仁田厚として生きたい」とは?
その後の大仁田は、1995年5月に川崎球場でのハヤブサ戦で2度目の引退をするまで、生傷とその縫い跡を増やしながらエンジン全開で走り続けた。
1995年以降、幾度も繰り返されることになった引退劇については、実はよく覚えていない。引退と復活を繰り返す大仁田は、「大仁田厚だから許される」存在になっていった。もはや、その理由はどうでもよくなっていたからだ。
今回の引退興行では、「すいません、こんなウソつきで、こんな弱い男に、たくさんの応援ありがとうございます。でも1つだけ、大仁田にもいいところがある。それは絶対に諦めないこと。絶対に夢を諦めるな」
大仁田は自分を支持してくれたファンに大仁田らしいメッセージを送った。
「オレはまだあと10年は働こうと思っている。大仁田厚として生きたい。プロのレスラーとしてリングに上がることはもう絶対にない。それは、やらない。プロレスにかかわることはあるけれど」
大仁田はそう言った。
でも2度目の引退の時も、大仁田は「本当に引退する」と言っていたのだ。当時の私は、それを信じていたが……。
今回、10月31日の後楽園ホールで、82歳になった母親までリングに上げて、10カウントのゴングで涙する大仁田を見ていたら「今度こそ本当なのか……」と、また思ってしまうから不思議だ。
「母さんが、オレがプロレスを辞めるまで、大好きな日本茶を飲まないで、ずっと白湯で過ごしてきた。家に帰ったら、お茶を入れてやろうかなって。オレみたいなバカ息子でもね」