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大仁田厚、43年間のプロレスラー終焉。
引退後もリングでレフェリー・デビュー。
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2017/11/02 17:00
最後の最後までその“邪道”なスタイルを貫き続けている大仁田。さらなる復活劇は……あるのか?
最初の現役引退時は、非常に惜しまれたのだが……。
引退勧告はジャイアント馬場によるものだったが、当時の大仁田の引退は非常に惜しまれた。
だが、軽快な動きが求められるジュニアヘビー級の選手としては、レスラーを続けられない致命的な重傷なことも事実だったのだ。
それでも、プロレスラーであり続けるという夢をあきらめきれなかった大仁田は復帰を模索する。大仁田はジャパン女子プロレスでのグラン浜田との対戦を経て、1989年10月にFMWというインディー団体を旗揚げした。
「何が飛び出すかわからない」というキャッチフレーズが興味を誘った。でも、「団体としてそんなに長続きはしないだろうな」というのが大方の見方だった。
だが、それを否定したのが、有刺鉄線と電流爆破という試合方式だった。
1990年8月に汐留で行われたターザン後藤との「ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ」は衝撃的だった。
画期的なデスマッチを発明した大仁田。
「耳栓が必要ですよ。音もすごいから」と試合の数日前に大仁田から言われた。耳栓をしないと、爆発音に体が反応してしまって、写真がブレてしまうという警告だった。
私は耳栓をして撮影に臨んだ。
リングには大きな火花が何度も散った。
これは今までに見たことがないほど、刺激的なシーンだった。
結局この試合がきっかけで、大仁田のデスマッチを夢中で追いかけることになった。
1991年5月の大阪の万博記念公園お祭り広場で行われたミスター・ポーゴとの「有刺鉄線バリケードマット地雷爆破デスマッチ」もすさまじいものだった。