ぶら野球BACK NUMBER
“巨人史上最強助っ人”の素顔。
ウォーレン・クロマティを読む。
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byMakoto Kenmisaki
posted2017/07/27 07:30
名前を聞いたら誰でも思い出すであろう、あの人懐っこい笑顔――チューインガムも、その象徴だった。
“世界の王”から、焼き鳥屋で打撃指導を。
いらっしゃいませ! いらっしゃいませぇ……ええっ……!
東京・青山の焼き鳥屋店員は思わず絶句したはずだ。
なにせ当時の日本では総理大臣やアメリカ大統領よりも有名な“世界の王”の突然の来店だ。奥のVIPルームに通された王とクロマティは他愛のない会話から、自然と日本語と英語が入り交じった野球談義へとシフトする。「いいかい、クロウ」と畳の上で繰り広げられるマンツーマンの打撃指導。
「打つときにはね。左の脇の下に本を挟んでいるつもりで、それを落とさないように振るんだ。肩が開くと、本は落ちてしまう」
確かに振りながら左肩を開くと雑誌はポトリと落ちるが、左肩を残して振ると雑誌は落ちなかった。驚くほど簡単な理論だ。ほかの打撃コーチはややこしい方法をいくつも頭に詰め込もうとするのに……。クロマティは王のスマートさに心から感激する。
「俺はなんて幸せ者なんだろう。地球の反対側の日本料理店で、世紀の大打者から秘密のバッティング・セミナーを受けている。こんなチャンスに恵まれる人間が、世界中にいったい何人いるだろう」
王監督でなければクロマティは、すぐ帰国していた。
何の仕事でも、信頼できるボスとの出会いは人生を変える。
王貞治が巨人監督に就任したのが'84年、クロマティが来日したのも同じ年だ。
マスコミからは時にワンパターン采配と批難された背番号1と、感情的かつ怠慢プレーを指摘され続けた49番。いわば戦友とも言える2人の国境を越えた師弟関係。中日の宮下昌己から死球を受け乱闘騒ぎになった試合後も、王はチームバスの中で「ナイスファイト! クロウ」とその姿勢を称えたという。
'87年に王政権で初優勝した時はともに涙を流しながらビールを掛け合い、歓喜の抱擁を交わし喜びを分かち合った。恐らく、王監督じゃなければ、クロマティは首脳陣とぶつかり1~2年でメジャー復帰していたのではないだろうか。