ぶら野球BACK NUMBER
“巨人史上最強助っ人”の素顔。
ウォーレン・クロマティを読む。
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byMakoto Kenmisaki
posted2017/07/27 07:30
名前を聞いたら誰でも思い出すであろう、あの人懐っこい笑顔――チューインガムも、その象徴だった。
巨人戦ナイター中継の視聴率が毎晩20%以上の時代。
巨人戦ナイター中継の視聴率が余裕で毎晩20%越えしていた時代の、原辰徳と並ぶ看板スター選手。
来日1年目の'84年から35本塁打を記録、'86年には頭部死球で退場した翌日に劇的な代打満塁ホームランをかっ飛ばし、'89年には打率.378で首位打者とMVP獲得。今でも風呂に浸かりながら「ラクをしてもクロウクロウ~苦労してもクロウクロウ~」と無意味に歌えるこの感じ。
独特のクラウチングスタイルの打撃フォーム、風船ガムを膨らませて派手なガッツポーズ、スタンドの観客に向けたバンザイコール。そのすべてを当時の野球少年たちは真似をした。
いわば、彼は大空翼や孫悟空と同レベルのリアルヒーローだったのである。
だから、この本を初めて読んだ時はあまりの内容の生々しさに戸惑い、同時にその面白さにページをめくる手が止まらなかったのをよく覚えている。
当時、大リーグより高給を出せた日本プロ野球界。
モントリオール・エクスポズで通算1000本以上の安打を放ったクロマティは、'83年オフにFAで真っ先にオファーのあったサンフランシスコ・ジャイアンツではなく、年俸60万ドルの3年契約と条件が図抜けてよかった読売ジャイアンツ行きを選択する。今となっては信じられない話だが、当時はNPB球団がMLBチームに対してマネーゲームで対抗できる時代だった。
まだ30歳の現役バリバリのメジャーリーガーがまさかの日本球界行き。
「俺は最盛期に日本でプレーする最初の大リーガーになるだろう」
自尊心の強いクロマティだったが、同僚のレジー・スミスからは「キャンプは地獄だと思いな。本当の地獄だぞ、ウォーレン」と脅され、実際に想像を絶するハードなトレーニングと巨人を取り巻く異常な数のマスコミにクタクタになり、夜は故郷の妻や知人に国際電話で愚痴る毎日。
シーズンが始まると日本の投手の攻めに戸惑い、球場までの地下鉄のラッシュにも四苦八苦。守備コーチはしつこいくらいに「今日は風があるから気をつけろ」なんて分かりきったお天気リポートを繰り返す。クソ、いったいどうなってんだこの国は。今シーズンだけでも続いたら奇跡だよ……。
そんな悩めるクロマティを救ったのは、当時の指揮官・王貞治だった。