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<追悼・蔦監督夫人> やまびこ打線の母をたずねて。
text by
船曳陽子Yoko Funabiki
photograph byAsami Enomoto
posted2015/02/05 16:30
「うちの先生より偉いんは、天皇陛下だけじゃ」
蔦が作る小さなほころびを、繕っていたのがキミ子だった。時に軌道修正もする。春の選抜で「さわやかイレブン旋風」を巻き起こした当時、蔦はキミ子に大目玉を食らっている。決勝前夜、ナインの緊張をほぐそうと、蔦が「春は(夏と違って)準優勝でも旗がもらえるけん、負けてもええ」と言ったのだ。結果は準優勝。
「優勝するつもりの選手になんてことを言いなはる」
キミ子に諭され、蔦は一切その手の冗談は言わなくなった。
キミ子の夫と野球部に対する献身は、周囲を驚かせることもあった。当時、野球部部長として蔦を支え、長らく夫婦を見てきた白川進は言う。
「野球以外のことは目もくれん。人がなんと言おうと風評では動かない。ある意味、変わり者の夫婦だったかもしれませんね」
こんなエピソードがある。自宅に招いた部の有力後援者と蔦が部の方針について議論となった時、キミ子が言い放った。
「うちの先生より偉いんは、天皇陛下だけじゃ」
その言葉の迫力に、周りは圧倒されたという。
家柄の違い、親族の反対を押し切っての恋愛結婚。
白川は、キミ子の心の奥底にあったのは「蔦家を守る」という思いだったかもしれない、と想像する。蔦家は戦後の農地解放で多くの財産を失った。キミ子の献身には、周囲に反対された結婚であったという事情が透けて見える。
蔦とキミ子が夫婦となったのは1950年、未だ戦後の混乱が色濃く残る時代だった。蔦は、同志社大時代に第二次世界大戦で学徒出陣し、特攻隊員として終戦を迎えた。戦地から引き揚げ、社会人野球チームを転々としていた頃に、徳島の農家の長女だったキミ子と知り合ったという。長男の泰見が言う。
「周囲にだいぶ反対されたようです。商家と小作人では、いわゆる家柄が違うと。結婚式も挙げていないはずです」
だが二人は互いの親族の反対を押し切って、当時としては珍しい恋愛結婚を成就させた。
蔦は結婚後、1年のプロ野球生活を経て池田に戻り教員となった。戦時中、芋畑だったグラウンドは畝の跡が残り、まだでこぼこだった。そこで、素足にパンツ一枚でノックする蔦の姿があった。野球部を強くする。その一念にとりつかれた夫のため、キミ子は個を捨てた。蔦の夢を支えることに没頭した。