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<追悼・蔦監督夫人> やまびこ打線の母をたずねて。
text by
船曳陽子Yoko Funabiki
photograph byAsami Enomoto
posted2015/02/05 16:30
甲子園、春の園遊会にも足を運ばず黒衣に徹した。
白川は「キミ子さんが新しい着物を買ったのを見たことがない」と言う。少しの貯金ができても、それは「家」のために使った。自宅の屋根や樋を少しずつ修繕し、古い旧家の手入れに心を砕いた。
'80年代の全盛期に、キミ子は甲子園に応援には行かなかった。「新聞社に追いかけられるのが嫌じゃ」と、家に残って夫を待った。'83年、蔦が皇居で催される春の園遊会に招待された時にも同行しなかった。「ええ着物を買ってまで行きとうはない」と笑い飛ばしたという。ひたすら黒衣に徹した人生。それが、キミ子の喜びだった。
蔦は'93年に監督を正式に勇退。その後は病に伏した。夫婦旅行も一度も行かず、'01年4月28日、肺がんで逝った。享年77。キミ子が一番好きだったというユニホーム姿で旅立った。
寮は'00年にキミ子が高齢となったことで一度は閉鎖した。しかし、4年前に遠方の生徒を1人だけ特別に預かった。外食が条件だったが、キミ子はおやつや夜食をかいがいしく作り、最後の夏まできっちり世話をして送り出した。'11年、「蔦寮」はその役目を終えた。
「うちの先生はな、勝つということを知っとった」
夫を見送って13年。年季の入った「蔦文也」の表札がかかるその家に、91歳になった妻のキミ子をたずねた。車いすに頼り、すっかり耳も遠くなった。それでも、時に眼光鋭く、時に辛辣に、時に目に涙を浮かべて熱く語る。その姿は、おそらく蔦を支えていた時代と変わらない。
勝てなかった時代のことを訊けば、迷いや不安はなかったと言う。
「うちの先生はな、野球が上手。勝つということを最初から知っとった。甲子園行く時はピッチャーのええのんを1人やのうて2人も3人もつくって、何人も連れて行ったら勝てるとわかっとった」
この小さな田舎町から、畠山、水野とドラフト1位投手を2年連続で輩出した。その奇跡のような功績も当然だと言わんばかりだ。