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<追悼・蔦監督夫人> やまびこ打線の母をたずねて。 

text by

船曳陽子

船曳陽子Yoko Funabiki

PROFILE

photograph byAsami Enomoto

posted2015/02/05 16:30

<追悼・蔦監督夫人> やまびこ打線の母をたずねて。<Number Web> photograph by Asami Enomoto

寮に済む50人前後の生徒をキミ子が一手に預かった。

 蔦家は、江戸時代末期から明治にかけてきざみたばこの集積地として栄えた阿波池田の名家である。当時、富の象徴であったのが、日本家屋の屋根に取り付けられた土壁。この「うだつ」が上がった家が立ち並ぶ通りは今も100年以上前の面影が残る。旧家の広い玄関を入るとすぐ横には、洋風建築の応接室。高い天井、太い柱と梁が、当時の繁栄を物語る。その屋敷の裏には、今は誰もいない「蔦寮」が静かにたたずんでいる。

 キミ子は結婚直後の27歳から夫の教え子の世話をしてきた。阿波池田はJR徳島線の西の終点。通学圏は限られている。蔦は当初、遠方の選手数人を自宅で預かった。そのうち、近所のマンションにも部員が住むようになり、彼らの食事もキミ子が用意するようになった。

 '83年春、水野、江上らが3年になった時、蔦は自宅敷地内に寮を建てた。毎年50人前後の生徒をキミ子が一手に預かった。毎日の朝食づくりが主な仕事だ。5升の米を炊く。2升をガスで、1升5合を2つの電気釜で。魚を焼き、煮物を作る。できあがっても、50人分うまく配分するのがまた大仕事となる。

 

勝てなかった時代、夫の酒癖の悪さに悩まされ……。

 長女がおなかにいた時も、生まれる直前まで台所に立っていた。その日の朝までいつもどおりにご飯を作り、生徒を見送った。皆が帰ってくると、出産が終わっていた。「学校から戻ってきたら赤ん坊ができとっておぶけた(びっくりした)」と寮生たちが目を丸くしたという。

 おおらかな肝っ玉母ちゃんぶりで大所帯を仕切っていたキミ子。あいさつや生活態度については厳しかったが、「爪が伸びてケガしないように」、「髪をそろそろ切らなくては」と、一人一人に母のように目を配った。

 ただ、キミ子にとってはそんな苦労はたやすいものだった。蔦と切っても切れないのが、酒。「ワシから酒と野球をとったら何も残らん」と豪語した夫の酒癖の悪さには、特に勝てなかった時代、ずいぶん悩まされた。練習が終わるとそのまま呑みに行き、家に帰ってこないことはしょっちゅうだ。

 今も昭和の香りを残す、阿波池田駅前の商店街。筋を一本入ると、小さな呑み屋が点在している。同僚と酔いつぶれ、路上で寝ている蔦の姿はこのあたりでは珍しくなかった。

【次ページ】 ビール瓶を取り上げて、グラウンド脇で割ったことも。

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