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<ノンフィクション> セルジオ越後 「ニッポンを叱り続けた男の人生」 

text by

城島充

城島充Mitsuru Jojima

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photograph byNorihiko Okimura

posted2011/01/25 06:00

<ノンフィクション> セルジオ越後 「ニッポンを叱り続けた男の人生」<Number Web> photograph by Norihiko Okimura

少年サッカー教室で見せた稀有な才能。

 藤和を離れたセルジオはいったんブラジルに帰国するが、河口らの熱心なオファーを受けて半年後に再来日した。永大はセルジオに選手としてではなく、指導者としての役割を求めた。そして地元の少年を対象に開いていたサッカー教室が、セルジオに新たな活路を開いてくれたのだ。

 セルジオが子供たちにサッカーを教える姿を見たとき、賀川はその指導力と目線の低さに希有な才能を感じた。

「地面にあるボールを足であげてごらん」

 セルジオの呼びかけに、1人の少年がつま先を使ってボールを上にあげる。

「上手だね。でも、違うやり方であげてみて」

 少年が考えていると、セルジオは「こういうやり方があるよ」と言いながら、ボールを右足のアウトで掬うように上げてみせる。さらに「これもある」と両足で挟んで上げる。続いて転がってくるボールをグラウンドに膝をついて太ももの上をすべらせると、子供たちは目を丸くして甲高い歓声をあげた。

 優秀な選手がそのまま有能な指導者になれないことを、賀川はよく理解していた。例えばネルソン吉村も華麗な足技を持っていたが、ボールを渡して「あのフェイントを見せてほしい」と頼んでも、きょとんとした顔をしてこんなことを言う。

「相手が前にいないと、なにもできないよ」

 セルジオは自分のプレーを一コマ一コマ分解し、人にわかりやすく説明する能力に長けていた。そこにたどたどしい日本語と彼独特のユーモアが加わるから、子供たちはどんどんセルジオの世界にひきこまれていく。

サッカー文化を根付かせるために「種をまく人になろう」。

 業績の悪化で永大サッカー部の廃部が決まったとき、セルジオの気持ちはもうブラジルにはなかった。

「日本には強化の思想はあっても、普及の思想がなかった。僕は子供たちと一緒にボールを追いながら、この国に本当のサッカー文化を根付かせよう、自分はそのために種をまく人になろうって思ったの」

 セルジオは人と顔をあわせるたび、自らの思いを伝えた。各地で少年サッカー教室開催の機運が高まっていたことが追い風になった。こうした動きに着目した企業が、セルジオのサッカー教室を後援してくれることになったのだ。

 だが、ここでも日本サッカー協会の古い体質がセルジオを苦しめた。協会が定めたコーチングコースを修了していないセルジオには、協会公認のサッカー教室開催を認められない――と言い始めたのだ。

【次ページ】 セルジオの教室は1000回を数え、教え子は50万人以上。

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