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<ノンフィクション> セルジオ越後 「ニッポンを叱り続けた男の人生」
text by
城島充Mitsuru Jojima
photograph byNorihiko Okimura
posted2011/01/25 06:00
セルジオの教室は1000回を数え、教え子は50万人以上。
セルジオから相談を受けた賀川は、協会幹部と直談判して説得した。
「セルジオが教えるのがうまいのはよくわかってるだろう」
「それはわかってますが、ルールだと教えられないことになります」
「なにを言ってるんだ。日本のサッカー界のためには、セルジオの力が必要なのもわかっているだろう」
押し問答の末、セルジオは協会内で「特別コーチ」という肩書きを得た。彼のライフワークとなる「さわやかサッカー教室」はそんな曲折を経て1978年にスタートした。
セルジオはサッカーの伝道師を自任し、全国各地を飛び回った。野球帽をかぶったり、父親から持たされたバレーボールを手にグラウンドに集まってくる子供も珍しくなかったが、一人ひとりの子供たちとボールを通じてふれあった。
「たくさんの子供にいっぺんにサッカーを教えられるんですかってよく聞かれたけど、僕は教えてるんじゃない。僕が子供のころそうだったように、一緒に遊んでサッカーの楽しさを伝えようとしてきたんだ」
2002年まで続いた教室は1000回を数え、教え子の数は50万人を超えた。「みんなが一流選手になれなくてもいいの。教室でふれあった子が大きくなってもサポーターとしてサッカーを愛してくれている。時間をかけてそんな流れを作れたことが僕の誇り」と、セルジオは言う。
日本サッカー界は大きな変革を遂げたが……。
セルジオが日本の生活に溶け込んだ今、サッカー界は大きな変革を遂げた。プロリーグが開幕し、W杯にも出場できるようになった。
「もし、セルジオがいなかったら、発展のスピードはもう少しゆっくりしていたと思います」と賀川は言う。今年で86歳になる賀川はサッカー殿堂に名を刻んでいるが、「私の心の中では、セルジオが殿堂ですよ」とも。
だが、セルジオが疑問を抱いたこの国のスポーツのあり方はあまり変わっていない。
企業に頼る体質は続き、かつて永大産業でセルジオが苦渋を味わったように、会社の業績悪化が廃部につながるケースは今も繰り返されている。現在、彼がアイスホッケーチーム「日光アイスバックス」のシニアディレクターを務めるのも「日本のスポーツを企業依存の体質から脱却させたい」という強い思いがあるからだ。
メディアを通じた評論活動も、セルジオにとっては「種をまく行為」だという。
「日本に本当のサッカー文化、スポーツ文化を根付かせるにはどうしたらいいか、ずっと考えている。辛口ってみんな言うけど、母親も自分の子供には厳しく接するでしょう。ジャーナリズムも含めて、厳しいことを言わない人は日本のスポーツの発展に貢献していないと思う」