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<ノンフィクション> セルジオ越後 「ニッポンを叱り続けた男の人生」
text by
城島充Mitsuru Jojima
photograph byNorihiko Okimura
posted2011/01/25 06:00
鉄鋼会社に就職して3年、セルジオに届いたメッセージ。
どんなスター選手でも、ピッチを去る日はやってくる。「ユースからどんどん優秀な選手があがってくることにも焦りがあった。いつか実社会でもまれるのなら、できるだけ早いほうがいいだろうと……」
海を渡って苦労を重ねた両親の姿も、脳裏をよぎった。兄の紹介でブラジルの鉄鋼会社に就職したセルジオは、知名度を生かして営業の仕事で業績をあげた。もし、日本からオファーが届かなければ、セルジオは過去の栄光にうまく寄り添いながら順風満帆なサラリーマン生活に身を浸し続けたかもしれない。
「日本のサッカーを変えてほしい」
藤和からのメッセージに心が動いたのは、就職して3年がすぎたころだ。
「僕がサッカーをすることに反対していた父が、初めて僕のプレーを見てくれたのが、東京五輪(1964年)の代表候補に選ばれたときだったの。すごく喜んでくれてね。結局、コリンチャンスのユースに所属していた僕は東京に行けなかったけど、違う形で両親が生まれ育った国に行けるのならって。日本語が話せなくて不安だったけど、ブラジルに戻るつもりだったし、社会人として貴重な体験を積めればいいなと思ったのね」
メキシコ五輪銅メダルの遺産は引き継がれなかった。
1968年のメキシコ五輪で銅メダルに輝いたとき、多くの人が日本サッカーの明るい未来を予想したかもしれない。だが、その栄光の遺産は引き継がれなかった。
メキシコ五輪の翌年、日本で行なわれたFIFAのコーチングスクールで代表チームを見たドイツ人指導者のデットマール・クラマーは率直な印象を報道陣に伝えている。
「世界はマラソンのスピードで走っているのに、日本はのんびりとジョギングをしていた。あるいはタンゴでも踊っていたのかもしれない。一歩進んで二歩後退していた」
当時、サンケイスポーツの記者をしていた賀川も同じ気持ちを抱いていた。
「メキシコ五輪以前にも、学ぶべきものはたくさんあったのにどうして継承できなかったのか。この国のサッカーに関わった人間として責任をずっと感じていました」
東京五輪の翌年にあたる1965年、賀川は他社の記者仲間らとともに「神戸少年サッカースクール」を立ち上げていた。この動きは同じ問題意識をもった関係者の間に広がり、セルジオが来日した1972年には全国各地で小学生を対象としたサッカー教室が開催されるようになる。
もちろん、セルジオはそうした流れなど知らずに来日した。JSL初となる元プロ選手の加入は大きな話題を集めたが、チームに合流したセルジオが戸惑ったのは言葉の壁だけではなかった。