自転車ツーキニストのTOKYOルート24BACK NUMBER
古川橋発、吉原経由、夢の島まで。
明治通りは「祈りの環状線」だった。
text by
疋田智Satoshi Hikita
photograph bySatoshi Hikita
posted2010/07/18 08:00
「あしたのジョー」で有名になった泪橋。
そのひまわり地蔵尊に導かれるように、明治通りをさらに行くと、すぐに有名な「泪橋交差点」に出た。
この泪橋を南に行くといわゆる山谷のドヤ街となる。
でもね、おやおや、なんだか昨今は風景がちょっとポップだ。現在ではドヤ街というより「安ホテル街」といった方が実情に近く、実際、日本観光の外国人バックパッカーやら、東京に入社試験を受けに来た就活学生やらが普通に歩いている。随分変わったもんだなと思う。
泪橋という地名を一躍、全国区のメジャーにしたのは、やはり「あしたのジョー」だろう。
このマンガの中でも泪橋はドヤ街の入り口として描かれていた。実際と違うのは、泪橋が「本当の橋」として、川にかかっていたことだ。
ジョーの師匠、丹下段平は、泪橋の下にボクシングジムを建て「いつかは泪橋を逆に渡るんだ」と、ジョーとともに再起を誓った。泪橋とは「何らかの理由で身を持ち崩し、ドヤに流れてきた人たちの泪が由来」として描かれていた。
ところが、現実の泪橋はただ地名が「橋」なだけで、川はどこにも流れていない(実は暗渠になっているそうだ)。そして「泪橋」の本当の由来はかなり違っている。それはこの泪橋交差点を、南・山谷方向ではなく、北・南千住方面にいくと分かる。
泪橋の本当の由来は。
そこにあるのは、旧小塚原刑場だ。
江戸時代、ここで数々の斬首刑、磔刑が行われた。有名な首切り朝がいたのもここだ。
刑場に向かう受刑者が、この世との別れに最後に泪したのが「泪橋」。それが実際の泪橋の語源。
ちょっと明治通りから外れるけれど、その刑場跡地、現在の回向院にも行ってみた。
鼠小僧次郎吉や高橋お伝の墓があったりする。安政の大獄で刑死した、吉田松陰の墓、橋本左内の墓も、ここにある。それにしても松陰先生の墓は前回の世田谷区にもあったはず。ほんと幕末のヒーローの墓は、全国様々なところにあるのである。
ふと見ると、ここには「解体新書」のレリーフがある。誰もがかつて教科書で見た、あの有名な「ターヘル・アナトミア」だ。
江戸時代の最末期、ここの刑場で、刑死した人間の腑分けが行われた。腑分けを行った杉田玄白と前野良沢は、西洋医学書のあまりの正確さに驚いた。
ここは、日本の医学、ひいては自然科学の発祥の地でもあるのだ。