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古川橋発、吉原経由、夢の島まで。
明治通りは「祈りの環状線」だった。
text by
疋田智Satoshi Hikita
photograph bySatoshi Hikita
posted2010/07/18 08:00
大関横丁に、知る人ぞ知る「投げ込み寺」。
明治通りは、梶原駅(商標登録“都電もなか”とか売ってるよ)や田端駅(JRの巨大操車場があるよ)などを通り、やがて、大関横丁交差点に出る。
明治通りと日光街道が交わる都内屈指の大交差点の一つだ。ここのすぐ近くに「三ノ輪橋駅」があって、ここにて都電荒川線は終了。
ここから明治通りは次第に南に進路をとり、東京湾方面に向かっていくのだけれど、大関横丁の裏に、知る人ぞ知るディープスポットがある。
その名を浄閑寺。通称、投げ込み寺という。
江戸時代の話だ。この寺、南のほど近くにいわゆる「吉原」がある。そこの遊女たちは、ほとんど身寄りという身寄りがなかった。死ぬと投げ込むようにして、この寺に放り込まれたという。人間扱いではなかった。その数、2万余。平均年齢は21歳だったという。
いかに遊女たちが殺伐とした世界にいたかを示す話だが、浄閑寺の異様に墓石密度の高い墓地の中に、その遊女たちの供養塔がある。石には「生れては苦界 死しては浄閑寺」と有名な言葉が刻まれている。
投げ込まれた時点の平均21歳か。
当時の遊女はいずれも「売られてきた」娘たちだ。極貧の家庭に生まれたか、なんらかの悲しい理由の末に、吉原にたどり着いた。そして、ここで身をひさぎ、薄幸な人生を終えた。繰り返すが、その数2万余。
吉原にはもちろん華やかな花魁イメージもある。だが、その裏にこうした底なしの闇を抱えてもいる。
昭和の世には「ひまわり地蔵尊」。
この浄閑寺の墓地には、目立たないながら、もうひとつの「身寄りのないもののモニュメント」がある。
「ひまわり地蔵尊」という。昭和57年に建立された。
これは、吉原に隣接する「山谷」で生き、そこに倒れた日雇い労働者たちのためのものだ。
昭和の高度成長を支えた名もない労働者たち。その死後の安らぎを、この地蔵さまは祈っている。彼もまた、この地域の痛ましい歴史を物語っている。