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古川橋発、吉原経由、夢の島まで。
明治通りは「祈りの環状線」だった。 

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疋田智

疋田智Satoshi Hikita

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photograph bySatoshi Hikita

posted2010/07/18 08:00

古川橋発、吉原経由、夢の島まで。明治通りは「祈りの環状線」だった。<Number Web> photograph by Satoshi Hikita

「永久平和を願って」とは?

 公園内の地図看板を見る。そこには「便所」「植栽地」「碑」などと素っ気なく書き示してある。非常に不親切な地図で、ただ「碑」。なんじゃらほいと思う。

 で、地図通りに「碑」に行ってみる。すると「永久平和を願って」と刻まれた石碑があって、こう書いてある。

第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。
戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。 昭和五十五年六月

 これだけでは(特に若い人には)何のことやら分からない人も多いのではないか。

 かつてこのサンシャイン60が建っている広大な敷地には「巣鴨プリズン」があった。戦後、未決の「戦争犯罪人」を収監した巨大な拘置所。東條英機をはじめとするA級戦犯などの絞首刑が執行されたのがここだ。

 つまり、太平洋戦争はこの地で終わったのである。

 現在なら碑文にそのことを書いただろう。だが、サンシャインが建った1970年代、時代はまだデリケートだった。「A級戦犯の顕彰になってしまうから」などという、ちょっと意味の分からない理由で、それを書くことができず、結局、先述のようなぼやけた碑文となった。

東京拘置所は1970年まで池袋にあった。

 東京拘置所は、'71年に葛飾区小菅に移管されるまで、この地にあり続けた。その頃まで、ここに「戦後」はあったということになる。割合最近と思わざるを得ない。そして、解体直後に建ったのが、当時の最先端建設技術をつぎ込んだ摩天楼・サンシャイン60だ。

 それを意識して建てたかどうかは知らないが、この巨大摩天楼は、日本の戦前戦中というものに対する、巨大な墓碑なのだ。

 私はこの地で絞首刑に処せられた人に対して「お前らのせいで日本はバカな戦争に突入した」などとは言わない。というより、到底言えない。

 我々に限らず、民族というものは、時として理解不可能な熱に浮かされ、後から考えると愚行としか思えないようなことに突入することがある。

 どちらから見ても大悪人なんて人も、どちらから見ても大愚行なんて行いもない。良い側面も悪い側面も持ち合わせ、そこに一定の説得力があったからこそ、国民は熱に浮かされた。

 我々がすべきは、それを学び、今後に生かす、つまり、繰り返さないことだろう。碑文をぼやかし、地図にただ「碑」、などということとは、真逆のことだ。

【次ページ】 都電荒川線が、道路の真ん中を。

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