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<悲運のレスリング世界女王の挑戦> 小原日登美 「10年越しの夢舞台」
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![松原孝臣](https://number.ismcdn.jp/mwimgs/6/3/-/img_63c0172edf1a3eec5d5017836b5eb9301895.jpg)
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byYukihito Taguchi
posted2012/07/13 06:00
![<悲運のレスリング世界女王の挑戦> 小原日登美 「10年越しの夢舞台」<Number Web> photograph by Yukihito Taguchi](https://number.ismcdn.jp/mwimgs/3/5/700/img_35c1d873e5d713a5ebc1c47f12fb249c303840.jpg)
妹から衝撃の提案。「日登美が五輪を目指した方がいい」
'09年、小原はコーチとして世界選手権に参加した。この大会で、妹は8位に終わる。その直後、真喜子は言った。
「私は引退するから、日登美がオリンピックを目指した方がいい」
その瞬間を、小原はこう振り返る。
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「驚きというかショックが大きかった。妹がそういうふうに言うのはコーチとして勝たせて上げられなかったから。私の力不足だったと思ったんです」
妹を説得しようと試みた。
「もう1年やってみようよ。それでだめだったら自分が復帰するから」
ところが真喜子は、頑なだった。
「それだと遅い、ロンドンに間に合わないよ」
妹を説得しつつも、現役への思いも生まれはじめていることにも気づいたが、コーチとしての責任も果たしたい。「どうしたらいいのか分からない」と迷い続け、結論が出たのは、'09年12月、全日本選手権のときだった。
「妹は優勝しましたが、内容がぎりぎりで、見ていて限界かなと感じたんです。そのとき、自分がかわりにやろうと腹をくくりました」
周囲の支えを得て、課題だった減量と肉体改造に成功。
妹は一線を退き、小原は復帰を表明した。
まず課題になるのは、やはり減量だった。
「51kg級でも大変だったのに、ほんとうに落とせるのか、ただ減量だけして弱くなっても意味がない、どうしようと思いました」
不安をかき消したのは、周囲の支えだった。自衛隊体育学校のレスリング部コーチらが、体脂肪を減らすトレーニングを指導し、並行して48kg級という軽いクラスでの戦い方を想定した練習を行なってくれた。五輪日本代表選手団のドクターを務めた経験のあるつくば市内のドクターに、食事メニューなどのアドバイスを仰いだ。小原はトレーニングをこなす一方で、アドバイスに沿ったメニューの自炊を続けた。それは「発見」でもあった。
「以前は外食もしていたし、ストレスを感じるとついついジャンクフードに手が伸びることもあった。だから減量が大変だったし、48kg級に落としている姿なんて想像できなかった。でも人間って、本気でやると決めれば不可能はない、できるんだと思いました」
周囲の支えとともに、またオリンピックを目指せるという喜びが、以前には考えられないほど、己を律した生活を可能にしていた。
3カ月余りで8kgの減量を行ない、肉体改造に成功した小原は'10年の5月、全日本選抜選手権で優勝を飾った。
「夢にまで見たオリンピックの階級で復帰できてうれしいです」
試合直後、涙を流した。