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<悲運のレスリング世界女王の挑戦> 小原日登美 「10年越しの夢舞台」
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byYukihito Taguchi
posted2012/07/13 06:00
妹との代表争いを避けた結果、最強の相手と……。
オリンピックを目指すなら、実施階級の48kg級に下げるか、55kg級に上げるしかない。
48kg級にするには二つの問題があった。小原は51kg級でも減量を強いられていた。なのに、48kg級にすることに不安があった。
とはいえ、減量だけなら階級を下げて臨んだかもしれない。問題は、妹の坂本真喜子が48kg級にいたことだった。階級を下げれば、妹と代表争いをしなければならなくなる。
そう考えると、55kg級に上げるしかなかった。心身ともに万全ではない中、'02年12月の全日本選手権に55kg級で臨んだ。だが小原は敗れた。相手はあの吉田沙保里だった。
「もうアテネは行けないんだ」
気持ちが切れた。まだ代表選考大会は続くのにそう考えざるを得ないほど、自身の階級が採用されなかった不運、階級の選択を巡る葛藤によって追いつめられていた。
その後、出場を予定していた大会を欠場した小原は、'03年7月、故郷八戸の実家へと戻った。家からは出ず、ただ食事をするだけの毎日に、体重は74kgに達していた。
「ひきこもり同然でした」
当時をこう表現したことがある。無気力な生活を送りながら、しかし、心の中に浮かぶのはレスリングのことばかりだった。
仲間からは、しきりに励ましのメールが入った。妹からも何度も連絡があった。カウンセリングも受けた。
闘争心が再燃し、'08年の世界選手権で“有終の美”を飾るが……。
3カ月ほどが過ぎて、ふと、戻ろうか、そんな気持ちが芽生えてきた。年明け、小原は出身高校のレスリング部が自衛隊体育学校で実施した合宿に同行する。そこで自分が習得していない男子の技術を間近に見て、思った。
「まだ自分にはやれることがある。もっと上のレスリングを目指したい」
意欲を取り戻すと、自衛隊体育学校に入校し、まずは51kg級で復帰。'06年秋になってから再び55kg級に階級を上げ、'08年の北京五輪出場を狙った。しかし、やはり吉田の壁は厚かった。再びオリンピックへの切符を逃した小原は、'08年秋の東京での世界選手権を引退の場に決めた。
「オリンピックは行けなかったけれど、やり残したことはないと思えたし、世界選手権を自分のオリンピックだと思って臨みました」
51kg級で出場した小原は優勝で有終の美を飾り、引退後はコーチとして妹の指導にあたり、自分の夢を託すことにした。
心に整理をつけ、現役生活と縁を切った、はずだった。